2017年12月23日土曜日

Souma nomaoi



OMATURI NAVIさんというサイトがありました。
日本の祭りについて、日本語と英語で紹介しているわかりやすいサイトです。

以下は「祭ナビ」さんのサイトで紹介されてる「相馬野馬追い」の説明。

『Soumanomaoi is said to be originated from the training which Masakado Taira released the wild horse and pretend it to be enemy. You can experience gorgeous and heroic Sengoku picture scroll which around five hundreds warriors who are on horseback fortified with armor wearing sword on the waist and flag on the back, run at full speed.』


祭りは、地域性があるものですから、説明が難しいと思います。
日本人ならなんとなく「あー。うんうん」と理解できると思うのですが(忖度)
海外の方に説明するとなると、どう説明したらいいか??となります。
そもそも、英語が話せない書けない(私)状態だと、ますますハードルが高くなります。
祭ナビ」さんはわかりやすく書かれているので、海外の方に祭りを説明するのにピッタリだと思います。


2018年夏。
相馬野馬追いを観覧したい方は、執行委員会にお問い合わせを♪


2017年7月4日火曜日

相馬野馬追いのイラスト






相馬野馬追は、福島県相馬市で行われる祭礼です。

2017年の開催日は……。

7月29日(土)、30日(日)、31日(月)の3日間です。

30日の野馬追いを祭場地で観覧できる、観覧席券が発売されているようですが、
詳細は、相馬野馬追執行委員会公式ページでご確認ください。


祭礼1日目は相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の各妙見神社で出陣式が行われ、総大将をお迎えの儀式を終えたあと、南相馬市の雲雀ヶ原祭場地に向かいます。
その後、祭場で騎馬武者たちが古式馬具をつけて、馬場を走る「宵乗り競馬」が開催されます。


祭礼2日目は、相馬野馬追いのハイライト。
騎馬総勢500騎ほどが、祭場地へと向かう「お行列」が行われ、祭場地に到着後いよいよ「甲冑競馬」が開催されます。
そして、クライマックスの「神旗争奪戦」開催。2本の御神旗を、数百の騎馬群が奪い合います。

祭礼3日目は、神のおぼしめしにかなう馬をとらえて、奉納する神事。
騎馬武者が小高神社境内に馬を追い込み、御小人と呼ばれる若者たちが素手で馬をとらえます。

ざっくりですが、相馬野馬追いの流れについて書かせていただきました。
相馬馬追いを描いた、とよじいイラストがまだまだあるので、お祭りとともに紹介させていただこうと思っております。



2017年7月3日月曜日

何れ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)






何れ菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)。
五月雨に 沢辺の真薦 水越えて いづれ菖蒲と 引きぞ煩ふ

「太平記」の中にある記述で、源頼政が鵺(ぬえ)を退治した褒美に、鳥羽院から菖蒲(あやめ)前という美女を賜るとき、十二人の美女の中から選び出すように言われ、美人揃いだったため選びかねて詠んだ歌といわれています。

近衛天皇在位のとき、毎晩、丑の刻(午前2時)に御殿の屋根を黒雲が覆うという出来事が起こった。警護をまかされた源頼政は、雲の中に怪しい影があるのに気付き矢を放ったところ、頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という怪物が落ちてきた。これを退治した源頼政は、獅子王という御剣を天皇から賜ったという。

源頼政は源義朝について戦い、その後、義朝が起こした平治の乱では平清盛の味方となり、平家の横暴をみかねて平家を打つために挙兵しようとしますが、事前に発覚し、平等院で自害しました。

アヤメかカキツバタか、迷い迷われての人生だったのでしょうか?
それとも、知っていて、迷ったふりをして、世の流れに乗って動いたのか。
75歳以上生きた方のようですから、後者かもしれませんね。

さて、アヤメとカキツバタとショウブの見分け方ポイントは、生えているところが違うということ。

アヤメは乾いたところ。

カキツバタは水辺。

ショウブは湿地。

もう一つは、花の中央にある筋の色。

アヤメは黄色と紫の縞目模様。

カキツバタは白いすじ。

ショウブは黄色いすじ。

あとは、葉っぱの形が、アヤメが細くて平ら。カキツバタが幅広く平ら。ショウブは葉っぱの中央に太い筋があります。


ということで。とよじいのイラストがアヤメかカキツバタかショウブかわかりませんでしたが(汗)。
真ん中に白い線があるので、カキツバタかなということで。
違っていたら、教えてください(*^_^*)

2017年5月11日木曜日

佐渡島のイラスト 願(ねがい)集落






今日のイラストは佐渡島「願(ねがい)」集落です。

願は二つ亀と大野亀に挟まれている集落で、先日紹介した賽の河原がある場所です。

佐渡島 賽の河原

願集落から二つ亀へと向かう遊歩道の途中に、賽の河原があります。

賽の河原と「願」という名の地名が、マッチしているようでマッチしていないような、不思議な感じです。

願をポジティブで希望的な言葉として考えると、
あの世とこの世を結ぶ三途の川の河岸である賽の河原で願うのは
合わないような気もしますが……。

自分のための願いではなく、人を思っての願い……。

亡くなった人や家族が、三途の川の向こうで幸せに過ごして欲しいという願いと考えると、願という地名と賽の河原がしっくりくるように思います。

賽の河原には、子ども地蔵がたくさん置かれているのですが、親が子を思って置かれたのでしょうね。

彼岸では子が親を思い石を積む。此岸では親が子を思い地蔵を置く。

それぞれの願いが交差する河岸が賽の河原なのでしょう。


「願」という地名の由来は、大野亀に願掛けをすると、願いがかなうということから来ているそうです。

どのような願掛けをするのか。

賽の河原という場所ですから、亡き人の幸福を思っての願いが多いのでしょうね。

ちなみに、願集落には佐渡西国三十三観音の二十三番「施願観音」があります。

1東強清水~2逢田観音~3河内観音~4観音寺~5帰郷観音~6六句観音~7斉藤観音~8宿根木~9小太観音~10子安観音~11横山観音~12豊田観音~13新町観音~14三宮観音~15下新穂~16阿弥陀堂~17火伏観音~18円慶堂~19吾潟観音~20久知河内~21白瀬観音~22見立観音~23施願観音~24岩谷観音~25入川観音~26千佛堂~27波切観音~28下戸観音~29治門観音~30知空堂~31石田観音~32本屋敷~33堂林観音

番外─光善寺、稲葉堂、大浦観音、田中観音
本部─れんげ寺

となっております。

西国巡りは人気ですよねぇ。
浦佐毘沙門堂の後ろの山にも西国三十三番観音巡りありました。

>>浦佐毘沙門堂裸押合祭り

誰かを思って願う、日本人の優しさを感じる地名ですね。

2017年5月10日水曜日

佐渡島のイラスト 賽の河原




今日のイラストは、とよじいの佐渡島紀行「賽の河原」です。
 
佐渡島の賽の河原は、両津港から車で1時間ほど移動した、佐渡島の北西の突端近く、大野亀と二ツ亀という景勝地に挟まれた海食洞穴の中にあります。

近くに「願(ねがい)」という集落があり、願から海岸線に沿って遊歩道を歩いて1kmほど進むと、海食洞穴が見えてきます。

海に向かってポッカリと開いた穴の中には、複数のお地蔵様がおられて、海辺の石を積み上げた石積みがいくつも……。

賽の河原というのは、あの世(彼岸)とこの世(此岸)の間にあるとされる三途の川の河原のことをいいます。賽の河原では、親よりも先に亡くなった子どもが、親不孝の報いを受ける場所とされています。

親を悲しませた罪で、親の供養のために、石を積み塔を完成させなければいけませんが、石を積み上げると鬼がきて塔を破壊していく。また、子どもが石を積むと、鬼がきて塔を崩す、その繰り返しが親が三途の川に来るまで続きます。

ひとつ積んでは父のため

ふたつ積んでは母のため

みっつ積んでは故郷の兄弟わが身と回向して

ここで、子どもを救済に来てくれるのが、お地蔵様(地蔵菩薩)ということで、亡くなった子どものために、お地蔵様が置かれているのです。

お地蔵様は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道)すべての世界に現れて、人々を救う菩薩様であると言われています。

地獄の閻魔大魔王と地蔵菩薩が同一の存在であるという説もあります。

日本では、地獄の責め苦からお地蔵様が救済してくれるということで、地蔵信仰が広まり、賽の河原で鬼に苦しめられる子どもをお地蔵様が守ってくれるというので、子どもの供養においてもお地蔵様は人気でした。

「賽の河原地蔵和讃」というものがあります。
ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため……というフレーズです。

賽の河原で石を積む子どもの様子を謳ったものですが、
この和讃の最後に、鬼にいじめられ父母を偲んで泣いている子どもの前にお地蔵様が現れて、子どもを抱きかかえるというシーンが描かれています。

我を冥土の父母と思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣のもすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き

佐渡島の賽の河原のお地蔵様の像も赤ちゃんを抱きかかえ、お地蔵様の足元に子どもたちが抱っこをせがむように手を伸ばしている姿となっております。
 
賽の河原は佐渡島だけではなく、日本各地に存在していいます。有名なのが青森県の恐山ですが、もともとは京都の鴨川と桂川の合流する「佐比の河原」に由来するようです。

地蔵信仰と「賽(さえ)の神」がミックスしたもの、という説もあるようです。

賽の河原やお地蔵様と閻魔様の関係などは、地獄の様子をコミカルに描いた漫画「鬼灯の冷徹」に詳しく載っているので、よかったら読んでみてください。
笑いながら、地獄極楽この世の仕組みが学べますよ♪

さて、佐渡島の賽の河原ですが、地元では2月の寒念仏にお参りをしているそうです。
そして「賽の河原にあるものは持ち出してはいけない」というルールがあります。

石、お供えなど「持ち帰る」と災いが起こると言われていますので、ご留意を。

2017年5月9日火曜日

2017年5月7日日曜日

佐渡島のイラスト 達者海岸





今日のイラストは、とよじいの佐渡紀行スケッチブックから、佐渡の達者海岸です。

達者海岸は佐渡で有名な「尖閣湾」の一部にある海岸で、透明度に優れた海で、海水浴場としても人気のスポットです。

この「達者」という名前のいわれは「安寿と厨子王」の伝説からきています。

「安寿と厨子王」は、中世の浄瑠璃の演目として演じられていた物語で、各地で民話化しています。

森鴎外の小説「山椒太夫」でも有名です。


貴族の姉弟、安寿姫と厨子王は、他者に騙され都落ちした父を訪ねゆくが、途中人買いに騙されて、同行していた母と離れ離れになってしまう。

人買いにより姉妹は宮崎に、母は佐渡へと売り渡される。

~略~ 

紆余曲折あり、復讐を果たした厨子王は母を訪ね佐渡へと向かうと、海辺で鳥追い歌を歌う年老いた瞽女(ごぜ)に出会う。

「安寿恋しやホゥヤレホ。厨子王恋しやホゥヤレホ」

その歌を聞き、厨子王は瞽女が母であると気づき、駆け寄りすがりついた。
厨子王が近くの清水で母の目を洗うと、目が見えるようになり、母子は再び抱き合ったという。


この、厨子王と母の再会の地が「達者」であり、お互いが「達者」であったことを喜んだということから、達者海岸という名前がついたのだそうです。

母の目を治したという湧き水を祀る「目洗い地蔵」が今も残っています。

【達者海岸】
場所:佐渡市達者
アクセス:両津港から車で約60分。バス⇒尖閣湾達者から徒歩5分。

【達者海水浴場】

駐車場:20台(無料)
※更衣室、温水シャワーなどの設備はありますが、浜茶屋は出ていないようです

佐渡地域観光交流ネットワークさんで、ガイドが案内してくれる「さどさんぽコース」が企画されています。
3日前までに申し込みをすれば参加可能です♪

達者海岸から目洗い地蔵、厨子王と母の再会場所「おお坂」やクシキという竜が住んでいた「山門洞クシキ」などを案内していただけます。

地元の案内人ならではの、コアなスポットやためになる佐渡話が聞けますよ。

佐渡地域観光交流ネットワーク
さどさんぽコース「達者」。

※さどさんぽは達者のほか、岩谷口、関など8コース用意されています。
問い合わせは、一般社団法人佐渡地域観光交流ネットワークまで。

【一般社団法人佐渡地域観光交流ネットワーク】
住所:新潟県佐渡市河原田本町394番地 佐和田行政サービスセンター2階
電話:0259-67-7995

2017年5月6日土曜日

佐渡島のイラスト 七浦海岸


今日のイラストは、とよじいの佐渡紀行スケッチブックから、佐渡相川の七浦海岸です。

いかつり船を描いています。船の上に、のれんのように楕円形のものが吊るされていますが、これは、イカを呼び寄せるための灯り(ランプ)漁火です。

イカ釣り船の漁火は、宇宙からもくっきり見えるほどの明るさだと言います。

七浦海岸は漁火の絶景ポイントで、佐渡相川地区の鹿伏から二見までの7つの集落をまたぐ、10kmにおよぶ海岸線です。

隆起に富んだ海岸で、深く突き出た岬「橘の長手岬」

二つの岩が並ぶ「高瀬の夫婦岩」

縄文時代の住居になっていた洞窟

相川の町並みが一望できる「春日崎」

大きな石灯籠や断崖に刻まれた摩崖仏など、見どころ満載の海岸。

夕暮れ時になると、独特の形をした岩の影が海にうつり、紫紅の空とマッチして、美しい情景が奏でられます。

潮風を受けながら海岸線を散策し、夕日を眺めて、漁火に癒やされる。

一日の海の移り変わりを堪能できる佐渡、外海府の旅。いかがでしょう?

参考:さど観光ナビ 夫婦岩


2017年5月5日金曜日

佐渡島のイラスト 大間港の近代産業遺産



今日のイラストは、とよじいの佐渡紀行スケッチブックから、佐渡相川の大間港の風景です。

スケッチの日付は、昭和53年5月4日。ですが、スケッチブックの他のイラストの日付は83年とあるので、
昭和58年の間違いだと思います。1983年と昭和53がゴチャゴチャになって、53と書いたのでしょう。

いまから、34年前の5月GWの佐渡の風景です。

大間港は相川の市街地にあり、明治時代には佐渡金山から産出される、金や銅などの搬出が盛んに行われてた港です。

イラスト左側にみられる、白い塔のような建物はクレーンの台座です。その奥にもう一つ見える白いものが、ローダー橋と思われます。

ローダー橋は、荷物を運ぶクレーンやトロッコが通った橋の事です。

イラスト右側の赤い建物は、赤レンガ倉庫。

これらの建物は明治時代に建てられたもので、現在は使われておりませんが、近代産業遺産として見ごたえがあります。

廃墟好きな方とか、ノスタルジックな雰囲気がお好きな方にはぜひ訪れて欲しいスポット。

見どころのひとつとして、大間町の護岸は「たたき工法」の創始者である服部長七が指導して作られています(明治25年、1892年完成)。

たたき工法は、土砂と消石灰を混ぜて水で練った「たたき」と石柱を組み合わせた技術。
コンクリートが普及するまで使われていました。

近年だと、鉄腕ダッシュの防波堤で「たたき」が、使用されました(違うか……)

この、たたき工法による護岸やクレーン台座はいまでも残っているので、質感などをチェックしてみてください。

さど観光ナビに大間港の写真が掲載されているので、現在の大間港の様子をご覧になってみてください。

参考URL:さど観光ナビ~大間港


2017年5月4日木曜日

佐渡島のイラスト 千畳敷ワカメ採り




今日のイラストは、トヨジイの佐渡紀行スケッチブックより、千畳敷のワカメ採りのワンシーンです。

イラストの日付が「83」となっているので、昭和58年の旅行記ですね。

佐渡の千畳敷は佐渡の外海府にあります。
 相川町市街地の北端、下相川の海岸にある岩礁で、畳千畳ほどの広さを持つ、平らな形の岩場が続くことから、千畳敷と呼ばれています。

千畳敷を見るための橋が2本、観月橋(第一・第二)がかかっています。
橋の上から見る、月が美しいのでしょうね。

とき選書出版の書籍「佐渡を歩いて イギリス人のひとり旅」アンガス・ウェイコット著に、ワカメ採りがどんなものか、様子が見えてくる文章を見つけたので、引用させていただきたいと思います。

ただし、文章で描かれている場所は、千畳敷ではなく、もうすこし北の平根崎のようです。

誰かが歌う声が聞こえたので、私は道路から脇にそれて大きな岩陰の狭い砂れきの浜に下りてみた。

黒っぽいズボンに紺のシャツ、袖なしのウールの上着を着た小柄なおばあさんが、ゆっくりとした動作で、磯で海藻を集めていた。

左手には、キラキラ陽に輝く長い褐色のリボンのようなものをひと束抱えており、右手には短い鎌を固定した長い竹竿を持っている。

彼女はあちらこちらと海水にバシャバシャ分け入り、竿を伸ばしては海底の藻を刈り取り、すでに取り集めた束に加える。

仕事をしながら彼女は、奇妙な節のない唄、それも同じ節まわしを繰り返し口ずさむ。
 佐渡に伝わる古い仕事唄の一つだ。

 本に描かれた、おばあさんは長岡の生まれで、少女の頃に家族と別れて佐渡に来たそうです。

家を出るとき、家族がみな戸口に並んで見送ってくれたときのことが、今も目に浮かぶ、母と妹たちは、またいつ会えるかと泣いていたという。

著者とおばあさんの会話はしばらく続き、佐渡と長岡の積雪量の違いなどを語り合っています。

おばあさんの写真も本に乗っているので、よかったら読んでみてください。
イギリス人である著者の優しい情感たっぷりの視点で佐渡を巡る旅が描かれています。

2017年5月3日水曜日

佐渡鬼太鼓のイラストでつくったポチ袋


佐渡の鬼太鼓のイラストを使って、ポチ袋を作ってみました。

プリントアウトしてカット、のりで貼り付けるとポチ袋ができます♪

私の実家(トヨジイの住み家)や今の嫁ぎ先では、お祭りの際に「ご祝儀」をご祝儀袋に入れてお渡しするので「ご祝儀」と書いたのですが、ポチ袋ではご祝儀は渡さないですよね(汗)

水引のついている、祝儀袋で渡しますよね。

原寸サイズはA4半分くらいなのですが、拡大してプリントアウトしてご祝儀袋サイズにしてください。

画面向かって左の白い□部分は、お名前を書いていただければと思います。


日本のお祭りというのは、農耕に合わせた時期に行われるものが多いと思います。


春の田植え前⇒農耕の無事を願う。
秋の稲刈り前⇒収穫を願う、収穫への感謝。


農耕の神が春に山から下りてきて、稲作が終わると山に帰る。


その神様をお迎えする儀式と、感謝をしてお見送りをする儀式が春祭り秋祭りであるように感じます。


余談ですが……。
神様のお使い主がキツネとされていますが、稲の神様のお使いのキツネと仏教の神・荼枳尼天が乗っているキツネとがゴチャゴチャになって稲荷信仰が広まっています。


稲荷神は五穀をつかさどる「ウカノミタマ」で、ウカノミタマのお使いは白いキツネです。
荼枳尼天も白いキツネに乗っているので、余計混乱しているわけです。


話を戻しますね。


佐渡の鬼太鼓は、五穀豊穣・家内安全の祈願を結びつけた田楽から始まったといわれています。
田んぼに憑く悪霊を、鬼の踊りで祓うという意味があります。


鬼太鼓の舞も、佐渡各地で異なっていて、勇ましい舞もあれば、雅な舞もあり、翁が登場して豆を撒くものもあります。


それぞれの舞で、悪霊を田や里から追いだします。


能や狂言の舞にも、悪霊を祓う、追いやる、場違いであると気づかせる意味が込められているものがあるようです。


踊りを舞うことは、見る者を楽しませているだけではなく、見えない者への警告の意味もあるのでしょう。


また、見る側の喜びや楽しいという陽の気が、陰の気を押しやるということでもあるのでしょうね。


佐渡は能も盛んな地域です。


外海府からの悪霊の侵入を防ぐということで、鬼太鼓や能が守りの役目をしてくれているのかもしれませんね。

2017年5月2日火曜日

佐渡島 鬼太鼓のイラスト


今日のイラストは、佐渡島を代表する伝統芸能「鬼太鼓」のラフ画です。
「おにだいこ」ではなく「おんでこ」と読みます。

鬼太鼓は佐渡島の各地区で様々な形式があり、約120地区で鬼太鼓が伝えられていると言われています。

いくつか流派があり、一対の鬼が躍るものや、鬼がいない鬼太鼓(豆まき流)など形が違い、それぞれ見どころがあります。

4月になると、各集落で祭りが開催され、鬼太鼓が披露されます。

「え? 4月開催なの?」

5月の連休、GWが明日からスタートしますので、このお休みに鬼太鼓を見に行こう!
と思われたかもしれませんよね(私もです)。

鬼太鼓は4月披露がピークのようです(汗)が!

両津の若宮さん「八幡若宮社例大祭」が、5月5日に開催され、そちらで鬼太鼓が披露されます!
大祭「湊祭り」では鬼太鼓のほか。獅子、神輿、芸山車が繰り出し、見どころ満載です。

ちなみに、佐渡は能も盛んな地域で、世阿弥とも縁がある島です。
各地に能舞台が点在しており、春から夏にかけては薪能が開催されます。

5月6日には両津薪能が行われるので「八幡若宮社例大祭」と一緒に見学されてみてはいかがでしょうか?

話しを、鬼太鼓に戻しますね。

鬼太鼓の鬼は雄雌があり、舞の形が違います。また、面の形や衣装や髪の毛の色も違っています。

仁王様や狛犬と同じように、口が「あ」「うん」の形で異なります。

雄⇒「吽 うん」 口を閉じうる。
雌⇒「阿 あ」 口を開けている。

面の色は、雄が黒で雌が赤。
髪の毛(舎熊 しゃぐま)は、雄が黒で雌が白系。
衣装の上着が雄が紫などで、雌が赤系。

面は憤怒の業に見えるので、雄雌どちも雄に見えますが。
あ、でも。鬼女というだけあるから、どっちも雌に見える……が正しいのかな?

佐渡の鬼太鼓は歴史深く、由縁もあり、興味深い伝統芸能です。
GWに開催されるイベントなどについて、以下に記載させていただきます。

よろしければ是非、佐渡に足を運んでみてくださいね♪


【八幡若宮社例大祭 湊祭り】
開催日:5月5日
開催地:佐渡市両津湊213(八幡若宮神社)
アクセス:両津港から車で約1分
※鬼太鼓、神輿、芸山車など猟師町の雰囲気あふれる例祭。


【天領佐渡両津薪能】
開催日:5月6日 19:30から
開催地:佐渡市原黒724(椎崎諏訪神社能舞台)
アクセス:両津港から車で約5分
料 金:1,000円(運営協力金として)
演 目:羽衣~盤渉~

※薪能ライナーバスが運行されます(佐和田BS~金井~椎崎諏訪神社)
ライナーバスを利用する場合は、前日の17時までに「新潟交通佐渡」へお申込みください。
新潟交通佐渡 TEL:0259-52-3200 乗車運賃500円


【鼓童 佐渡宿根木公演2017】
佐渡発のパフォーマンス集団「鼓童」が、佐渡「宿根木」で、連続公演を開催中です。

開催日:4月29日~5月6日 11:00~,14:30~
開催地:佐渡市宿根木(宿根木公会堂)
アクセス:小木港から車で約10分
料 金:3,500円(中学生以上)1,500(4歳~小学生) ※当日は300円プラス


【佐渡國鬼太鼓どっとこむ】
佐渡の伝統芸能が一堂に会するイベント。地元特産品の販売もあります。

開催日:5月28日
開催地:佐渡両津湊 おんでこドーム
アクセス:両津湊より車で約1分

2017年4月27日木曜日

桜のイラスト




桜も季節が終わり、花が散ってしまいましたね。

浦佐毘沙門堂の隣、千住院の樹齢200年の垂れ桜が見ごろ(ちょい過ぎ)で、夜間もライトアップされているようです。

4月第一週に浦佐毘沙門堂に行ったときは、まだまだ何もない状態でした。

枝垂桜の幹に巻いていたのでしょうか? ゴザが河川の手すりで虫干しされていました。

桜というと花の盛りが綺麗ですが、葉桜になって、残っている花が風に飛ばされ、チラチラと散っていく姿も美しいと思います。


2017年4月26日水曜日

角田山の山野草イラスト ツバキ




先日、おとといに引き続き、角田山の山野草です。
ツバキですね。

椿は言い伝えやいわれの多い花ですが、年月を経たツバキは「化ける」という言い伝えがあるそうです。

江戸時代の浮世絵師・鳥山石燕の妖怪画集「今昔画図続百鬼」に、
古い椿の木に精霊が宿り、人をたぶらかすという絵と記述があります。

この画集の古椿の霊はモコモコしていて、あまり愛らしくないです…。



浦佐毘沙門堂の前立仏がツバキの木でできていて、この浦佐毘沙門堂のツバキと同じ木で作られたという毘沙門天が新潟県各地に点在していますが
 
浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門天像の謎

人々にとって、椿という木は神聖なものだったのでしょうね。


ところで、私はツバキというと、日本昔話の「夢を買う」を思い出します。



一人の商人と絵描きが旅の途中で出会い、商人が身の上話をしていると、
絵描きは眠ってしまう。

すると、眠った絵描きの鼻の穴からアブが出てきて、
しばらくするとアブは戻って来て、絵描きの鼻の穴に入る。

目が覚めた絵描きは、不思議な夢を見たと言って
山向こうの長者の屋敷の庭に白い椿の花がさく木があり、
その側にアブがいて、木の根元を掘ると黄金が入った壺が出てきたというのだ。

商人は絵描きに「その夢買った!」と言い、金銭を渡して、山向こうへと向かう。

はたしてそこには長者の家があり、庭には沢山の椿が植えられていたが……。

 参照:まんが日本昔ばなし「夢を買う」



椿に咲く花は、白ではなく赤なんですねぇ。
何本もある椿の木に咲くのは、全て赤い椿の花。


夢を信じて、長者の家で奉公人として働き続ける商人の姿が
四季の移ろいとともに描かれます。

椿の花が咲き、白い花がなくてガッカリする。
夏の盛りに庭を掃除。秋の枯葉を掃除する。
雪が降る中、蓑笠つけて掃除をする。

何度も何度も月日が巡る。


夢を信じて努力をすれば報われるという、良いお話しです。


このお話は、佐渡島の昔話だそうですよ。

2017年4月25日火曜日

角田山の山野草イラスト カタバミ



角田山の登山路は7つのコースがあります。
今日のイラストは「湯之腰」コースに咲いていた山野草「カタバミ」です。

湯之腰コースは、越前浜にあるカーブドッチ付近から登るコースです。



ちょっと急な箇所もあるので「やや難」なコースですが、新潟市の様子が一望できますし、
湯之腰温泉で汗を流してから帰ることもできますよ~♪

2017年4月24日月曜日

角田山の山野草イラスト イカリ草、雪割草、コバイモ



今日のイラストは、新潟市西蒲区の「角田山」に咲く山野草のイラストです。

角田山は登山コースが七箇所あり、初心者から熟練者まで、それぞれが登山を楽しめます。

また、春になると雪割草が咲き誇り、イラストのようにいろいろな山野草と競うように花を咲かせます。

雪割草が咲くコースは、上記七箇所のうち四箇所。


・五ケ峠登山口⇒なだらかで登りやすく、家族向け。

・灯台登山口⇒先日ご紹介した米山や佐渡が見えます。

 柏崎市 米山の山野草 米山山開き登山

・浦浜登山口⇒五ヶ浜~大深山経由山頂へ至るコース。

・福井ほたるの里登山口⇒なだらかで登りやすい。登山口には「じょんのび館」があります♪


角田山の雪割草は4月上旬が見頃で、いまは散り果てのようです(汗)が、
新緑や他の山野草が咲いていると思います。

2017年3月30日木曜日

三国街道と小千谷の絵紙 魚沼の山のイラスト 

今日のイラストは、三国街道近くにあるFM塔付近から魚沼の町並みを望んだイラストです。 先日、三国街道についての記事をアップさせていただきました。

 ⇒三国街道のルートと宿駅について【イラスト:栃原峠】 

三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。

新潟県内は、三国峠~浦佐~堀之内~長岡~寺泊へと続きます。


堀之内や塩沢は十日町や小千谷とならんで、縮の生産が盛んでした。

三国街道を縮商人が反物を背負って越え、江戸へと出向いたわけです。

その他、長岡藩主、牧野備前内は川を上る鮭をとらえて、将軍家に毎年献上していたそうですが、三国街道を通って江戸へと献上鮭が送られていたと言います。

寛政8年(1796)8月には、村上藩主 内藤信敦の一行が参勤交代を行った際、三国街道を通っています。

江戸から明治、昭和初期の人々が足繁く通った三国街道。
旅人や商人の思いがつまった道なのでしょうね。

話しが戻りますが、
小千谷の縮商品は、江戸へと縮を売りにいった帰り、
江戸の浮世絵をお土産に買ってきたそうです。

この浮世絵を「絵紙」と言い、小千谷の人たちは壁に貼って楽しんだり、
ひな祭りの際に飾っていたそうです。

季節が終わってのお知らせとなってしまいましたが、
毎年2月~3月上旬に小千谷市では
この絵紙と雛人形を展示する催しを開催しています。

絵紙は色鮮やかで、江戸の人々のセンスのよさを感じます。
また、江戸の暮らしぶりがわかるので、見ていて楽しいです。

毎年違う絵紙が展示されているので、是非とも足を運んでほしいもの。

2017年3月29日水曜日

春近し コブシの花のイラスト Part2



先日アップした、コブシの花の別イラストです。
スケッチの日付が1日違いとなっておりますが、
同じ花でしょうかね?

イラストの裏に、裏山を巡回できず、さぼり気味だということが書いてありました。

2017年3月26日日曜日

春近し コブシの花のイラスト



今日のイラストは、マンサクの花……と思ったのですが、
マンサクじゃないですね。

絵の下に「マンサク」と書かれているので、マンサクかと勘違いしましたが、

よくみたら「マンサクと共に」でした。

雪で折れた枝を、自宅の水彩画用のバケツの中に入れておいたところ、
マンサクと共に開花したということでした。

蕾の様子や花からみて、コブシだと思います。

とよじいが水彩画用に使っているバケツというのは、
私か妹が小学校のときに使用していた、図工用の黄色いバケツです。

3つの仕切りがある黄色いバケツを昔使っていましたよねぇ。
中に水をいれて、グルグル回して「水が落ちな~い!」と言いながら、みんなでバケツ回ししていました。
加速が足りないと、上にあげたときに水が落ちてくるケースも。

いまの図工用バケツは、水彩画用セットの中に入っていますよね。
四角いバケツで、その中に絵筆やパレット、絵の具を収納できるようになっています。

持ち運びに便利でおしゃれですが、黄色いバケツをみかけなくなったのが寂しい感じです。

2017年3月23日木曜日

春を告げる山野草 福寿草のイラスト






小学校の卒業式シーズンですね。
サクラの開花予想がされる時期となりましたが、魚沼では雪が降ったようです。

彼岸頃、再度寒くなり、温かさが増していく。
寒暖を繰り返し、魚沼は春を迎えます。

今日のイラストは福寿草。
新春を祝う花、ということで福寿草と名付けられたと言います。

花言葉も
 「幸せを招く」
「永久の幸福」
とハッピーな意味合いのある山野草です。

漢方では、福寿草の根や根茎は心臓の薬とされていますが、
効能が大きいため、多量に摂取するのは逆に毒となります。

福寿草に触れたり、花の匂いを嗅いだりするのは全く問題ないので安心してください。
食べなければ問題ありません。

福寿草の芽がでたばかりの頃、フキノトウと間違えてしまうことがあるのだとか。

発芽の時期も同じころで、花が咲く前の福寿草はフキノトウとよくにているのです。
くれぐれも、間違えないように。

2017年3月14日火曜日

三国街道のルートと宿駅について【イラスト:栃原峠】

浦佐毘沙門堂の裸押合い祭や、毘沙門市について調べていたとき、浦佐と堀之内が三国街道の宿場だったと初めて知りました。


浦佐毘沙門堂の毘沙門市」の「縮の販売で堀之内とトラブル!?」

実家裏山奥方面に三国街道が通っていて、現在も散策コースになっているということも初めて知りました。
「とよじいも登っていないたかな?」と思って、イラスト在庫を調べたところ、ありましたよ~♪




三国街道の栃原峠、FM塔付近です。


※1枚の絵を2回に分けてスキャンしているため、ツギハギ部分の色が変わっています、ごめんなさい。

原画は色の変化はないので、スキャン技術とツギハギ技術を高めて、原画のままアップできるようにしたいです。




栃原峠は三国街道を堀之内宿から浦佐宿に行く途中にある峠道です。
万治元年(1658年)に、高田藩により開拓されたと言われています。


いまでも、街道の名残である、茶屋や石仏などの史跡があちこちに残っています。
首なし地蔵という、ちょっとオドロオドロしい史跡もあるようですよ。
雪が溶けたら、散策してみたいです。




余談ですが……。


三国街道途中の大峠である、群馬県みなかみ町と新潟県湯沢町を越える三国峠。
こちらは、中世(鎌倉時代から安土桃山時代)ころから、存在していました。

山頂には、三国権現が祀られていますが、ここでも坂上田村麻呂が登場します!


 昔、白根山の悪鬼が上野・信濃・越後の三国に飛行して悪行を繰り返していた。
 そこで、坂上田村麻呂が討伐に鬼を討伐に訪れ、悪鬼降伏を祈念して三神を勧請した。


浦佐毘沙門堂も807年(大同2年)に坂上田村麻呂が建立したと言われています。
東北に向かうとき、坂上田村麻呂も三国峠や三国街道を通ったのでしょうかね。


毘沙門堂と坂上田村麻呂の関係については、こちらの記事で♪
浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係




さて、話を三国街道に戻します。


三国街道は江戸幕府の政策の一環として、東海道、中山道、日光道、奥州道、甲州道の五街道に次ぐ街道とされ整備された街道です。

三国街道という名前の由来は、利根郡新治村の三国峠を通過していることからつけられたと言います。


江戸幕府にとって、三国街道は佐渡や魚沼の上田銀山からの金銀を運ぶための重要なルートでした。

金銀を産出する佐渡との連絡路として、三国街道は北国街道、会津街道と並んで佐渡三道に定められていました。


街道の整備を行ったのは、江戸時代に天狗岩堰用水の延長の備前堀を手がけた、伊奈備前守忠次。

伊奈氏は代々、徳川幕府の土木をつかさどった家柄です。


幕府直轄で宿駅制が実施されたのが慶長14年。
そして、翌年15年には宿駅の制度がほぼできあがりました。


三国街道は中山道を高崎で分岐し、

金古→渋川→金井→北牧→横堀→中山→塚原→布施→

須川→相俣→吹路→長井→(三国峠)→浅貝→

二居→三俣→湯沢→関→塩沢→六日町→五日町→

浦佐→堀之内→川口→妙見→六日市→長岡→脇ノ町→

出雲崎→山田→寺泊と続いた道筋です。


距離にして、高崎から浅貝まで20里
浅貝から長岡まで28里


1里が約3.9kmなので、
高崎から浅貝までが78km、朝貝から長岡までが110kmくらいですね。


並足での所要日数は
江戸から高崎 3日
江戸から浅貝 5日
江戸から長岡 8日


もっと時間がかかるのかなぁ?と思っていましたが、20日ほどで江戸から長岡まで行けるのですね。

とはいえ、江戸から長岡まで歩くとしたら、現代人はもっと日数がかかりますよね、きっと。
昔の人たちは足腰強い、尊敬します!

現代人の私は、歩いて三国街道巡りは厳しいですが、車という文明の力を借りれるので(笑)
車を使って回ってみたいなと思っています♪

ここで、プチ疑問が(*^_^*)

「魚野川や信濃川が流れているんだから、船で移動すればいいんじゃないの?」

と思いますよね。実際、船での移動も行われていましたが!
川が流れる方に進めば楽ですが上るのが大変ですよね(汗)


六日町から魚野川下流には河岸場が設定され、下りの場合は船を利用することが多かったそうです。

上りは歩いたほうが楽だったようです。


金銀の運搬だけではなく、商人や武人など様々な人が三国街道を通って江戸と越後を行き来していました。

その人々の物語については、また後日。

2017年3月3日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 ささら擦りについて



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のワンシーンです。

●浦佐毘沙門堂の写真については
浦佐毘沙門堂の境内【写真あり】をご参照くださいね。

さて先日、ササラ擦りのイラストをアップしました。
裸押合い祭のイラスト 浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係


ササラすりというのは、祭りのクライマックスに行われる行事です。

押合いと奉納品の参献と撒与品が繰り返し行われた後、夜11時頃にササラすりが始まります。
「サンヨウ、サンヨウ」の文句に合わせ、年男がササラをすり上げます。

簓(ササラ)とは、民族芸能や祭りなどで使われる楽器のようなものをさします。
様々な形がありますが、竹の先を細かく割って茶筅のようにしたササラや玉すだれのような形をしたものがあります。

浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のササラは(上記イラストのものと形状が異なりますが)竹でできていて「擦りササラ」と「受けササラ」があり、切り込みの形状が擦りと受けで異なっています。

擦りササラは縦に13本の切れ込みがあります。

13という数字は、毘沙門天の眷属である、五大鬼神の「五」と夜叉八大将の「八」を合わせた数字です。

五大明王
・不動明王
・降三世明王
・軍茶利明王
・大威徳明王
・金剛夜叉明王


夜叉八大将(八大夜叉大将)
・宝賢夜叉
・満顕夜叉
・散支夜叉
・衆徳夜叉
・應念夜叉
・大満夜叉
・無比力夜叉
・密厳夜叉

そして、受けササラには、横に30本の刻みがされています。

天地に刻みを入れ、その中に28本の刻みをいれるということです。

毘沙門堂の山門の二階には、毘沙門天の眷属である二十八使者の像が安置されています。

この擦りササラと受けササラを十字にクロスさせ年男は真言密教を唱えながら、一年の豊作を祈願します。

ササラは内側に擦ると凶作に、外に擦ると豊作になることから、外へ外へと擦ります。


唱える呪文は他人に聞こえてはいけないので、年男は声に出して唱えません。
また、声が漏れないように、音頭取りの人たちが、音頭歌を歌っているともいわれています。

このササラは、坂西家の当主が代々、奉納する習わしとなっています。

坂西家は江戸時代に大割元役を務め、裸押合い祭では村の「重立の旦那」として尊敬された特別な家。


そして、坂西家の当主の代がかわるごとに新しいササラを作りますが、ササラをつくる竹は京都石清水八幡宮の竹を使用し、制作は普光寺の大工棟梁が行います。

できあがったササラを、坂西家の御当主が毘沙門天に奉納するわけです。


音頭取りの家も決まっていて、鈴木家が代々世襲しており、脇音頭をとるのは、分家や鈴木家に縁のある人に依頼するそうです。

鈴木家は江戸時代、大割元・坂西家の祐筆であったという伝承が残っています。

余談ですが、3月3日当日は、坂西家の御当主は「藤原の姓を名乗り」裃(かみしも)を来て、大祭に参加するとのこと。

さあ、そして。

ササラ擦りが始まると、押合いをしていた人々が、年男の周りを輪になってとりかこみます。
輪は三重四重となり、ぐるぐると年男の周りを回り、音頭取りの人々が、音頭歌を歌います。

以前は、音頭取りの人々ではなく、年男がササラを擦りながら音頭をとったと、鈴木牧之の「北越雪譜」に描かれています。


当月三日に年男参ったりな。
立ったこそ道理や門の松がまっさるわ。
まんがわらに手かけて春が来たとうのばら。
わいらに着しようとて白い管の笠。
黄金の花が咲く四つ隅のように。
たーむこそ道理や実が入るとうて。
立ったこそ道理や米が降るとうて。


この七つの文句を七回ずつ繰り返し、四十九回歌います。
一句一句の間に、年男の周りを回る人々が「サンヨウ、サンヨウ」と合いの手を入れます。

四十九回の歌が終わると「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」と唱えられ、輪を描いていた群衆が二つに割れ、年男が人々の「来い来い来いよ」の声に導かれて、内陣に入りササラを本尊の厨子に納めます。

その後、御灰像十二体を撒与して祭りは終わります。

祭り全体が一つのストーリーになっているような感じですね。

ラストの「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」がですね……。
なぜ、浦佐は山が多いところなのに、海を描写するような文句なのかというのが謎です。

また、人波が2つに別れるというのと、ささらを厨子に納めるという行事が……。
モーセの出エジプト記と契約の箱みたい──と思いました。

そして、黄金の花が咲くというのがですね――。

年男、井口家のご先祖が「毘沙門天像を運んで浦佐にやってきた」という言い伝えもありますしね。

浪漫があるお祭りですよね。

【2019年3月追】
浦佐の裸押合い祭り、毘沙門堂が製鉄に関係があるのではないか、という民俗学の本を読みました。現在、調査中♪ネコしきが製鉄に関係ありそう。
毘沙門天は製鉄に関係しますもんね。



2017年3月1日水曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 多聞天額毫を得た人物「弘賢」の行跡


こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天裸押合い祭り際に設置される大蝋燭です。
毘沙門堂内の四本の大きな柱の上に、蝋燭を設置します。

四本柱の蝋燭は、浦佐・長岡・小千谷・見附から奉納されるそうです。


さて、先回は毘沙門市の縮売買の件を書きました。
今日はその続きを書かせていただきます。


嘉永元年(1848年)頃、毘沙門市で縮の買取を行ったことから、堀之内との間でトラブルが起きました。

浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張り、その中で近隣から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】

菊紋入りの幕が張られていたら、うかつにその中には入れないでしょう。
時代劇の水戸黄門が持っている印籠みたいな感じかな?

なぜ普光寺に菊紋入りの幕があったのか? ということですが。
それには、文化十二年(1815年)に普光寺の住職についた弘賢が関係しています。

弘賢は毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀した人物で、
三十三番観音だけではなく、数々の行跡を残しています。

調べたところ、多聞天額毫(がくごう)も弘賢が得ています。
この方は、毘沙門天信仰に力を入れたようですね。

山門を建立する際、住職は後任の賢空に変わっていましたが、弘賢の力が影響を及ぼしていたようです。

話しを、菊紋入りの幕に戻します。

弘賢は文政三年(1820年)から文政八年(1825年)にかけて、京都嵯峨院から、菊のご紋使用許可、菊紋の幕、多聞天額毫などを得ています。

弘賢は普光寺の住職についた二年後に、新義真言宗(真言宗の宗派のひとつ)を統括する「江戸四箇寺」のひとつ「真福寺」に移り住職となります。

その後、普光寺の塔頭寺院のひとつ文殊院の住職代行につきます。

塔頭(たっちゅう)というのは、高僧の墓という意味です。
えらいお坊さんのお墓の近くに、弟子たちが小庵をたてて墓守をしていたのですが、小庵が寺として独立したものが塔頭寺院となりますが、寺院の敷地内にある別の坊をさすこともあります。

普光寺には、文殊院をはじめ千手院、花蔵院、宝授寺、地蔵院、西泉院という六箇所の寺院が存在していましたが、江戸から明治期にかけて廃絶し、現在残っているのは千手院のみとなってしまいました。

参考までに六寺院の本尊は──。

千手院⇒千手観音菩薩
文殊院⇒阿弥陀如来
法授寺⇒薬師
花蔵院⇒正観音
西泉坊⇒弥陀
地蔵院⇒地蔵

この六箇所以外にも、昔はもっと塔頭寺院が塔頭があったようです。

弘賢は普光寺の寺宝となる仏舎利、弘法大師の真蹟(しんせき:実際に書いたとされる)大般若経、足利尊氏・同義満書状などを収集し、寺に納めました。

これは、弘賢が真福寺に関係していたから行えたことだと言われています。

また、裸押合い祭で井口家が行場に掲げる毘沙門曼荼羅も、攝州本山寺の毘沙門曼荼羅を写し取り、弘賢が寺に納めたそうです。

毘沙門曼荼羅というのは、毘沙門天と毘沙門天に使える28の夜叉を描いた曼荼羅。
浦佐毘沙門堂では、山門の楼上に毘沙門天二十八使者の彫像が安置されています。

弘賢がどんなビジョンを持って、毘沙門堂や普寺光を形作ろうとしていたが気になります。

曼荼羅の絵を見ていてフト
押合い祭も人々が輪を描くわけだから、体曼荼羅とも言えるかも……と思いました。

話があちこち散乱してしまいましたね。すみません。
毎度のことか(^^;)

それはそうと

調べれば調べるほど、浦佐の毘沙門堂は興味深いと感じました。
今後も追跡調査していきたいと思います。

2017年2月24日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門市でトラブル発生!【江戸時代】



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門堂の山門です。

浦佐毘沙門堂の山門は天保2年(1831年)に、若松屋市四郎(関市四郎)の寄進で建てられました。
若松屋は酒造業や物流も行っており、大きな富を築いたと言われています。

今回は、この若松屋市四郎の息子さんと、毘沙門市のお話をさせていただきます。

話しは山門から、毘沙門堂へと飛びます──。


毘沙門堂市と多聞天祭礼市


大同2年(807年)に、坂上田村麻呂が建立されたと言われている毘沙門堂がある南魚沼市浦佐は、信濃川に通じる魚野川の両岸に位置する町です。

現在は上越新幹線の停車駅がありますが、江戸時代は三国街道の宿場町の一つとして賑わっていました。

浦佐毘沙門堂では毎月3のつく日に護摩をたいたことから、3のつく日には多くの人が参詣に訪れ、その人たちを目当てにした市が立つようになりました。

裸押合い祭も、3のつく日に開催されますが、この日は「サンゲツミッカノゴメイニチ」として、いつにも増して毘沙門堂前は賑わいます。

また、旧暦8月から9月までは、毘沙門天の御護摩が行われ、五穀・養蚕の豊穣を祈願する参詣客が各地から訪れ、その参詣客を相手に多聞天祭礼市が開催されました。


毘沙門天と多聞天について【余談】


浦佐毘沙門堂の入り口の扁額にも「多聞天王」と書かれていますが、多聞天というのは、毘沙門天のもう一つの名前です。
仏教では毘沙門天は、持国天、増長天、広目天と共に、須弥山に住む帝釈天につかえる四天王とされています。

余談ですが、東寺の講堂にいらっしゃる帝釈天さんはイケメンですよねぇ♪
東寺の講堂の立体曼荼羅の配置図を見ていただけるとわかりますが、四天王が四方を固めています。

話しを、毘沙門天に戻します。
四天王の一尊として安置する場合は「多聞天」、単独で安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれています。
四天王としてユニットを組んでいるときは多聞天で、ソロ活動するときは毘沙門天ということですね。

毘沙門堂の扁額がなぜ「多聞天王」と書かれているのか? についても、知りたいですねぇ。要調査です。

ただ……先ほど東寺講堂の話を書きましたが、東寺講堂の立体曼荼羅の中央には大日如来が安置されています。
毘沙門堂の別当寺として建てられた、普光寺の本尊も大日如来です。

普光寺の住職であった弘賢が、毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀していますが、普光寺の大日如来を中心において、曼荼羅を敷こうとしていたのかもしれませんね。

毘沙門堂の毘沙門市


さて、毘沙門堂付近で開催されていた市ですが、毘沙門堂の市に足を運べば、なんでもそろうと評判だったようです。

ちなみに、江戸時代に売られていた品物は、食料品、日用品、衣類、鉄器、陶器など様々。

市には長岡や柏崎、三条の商人なども出店し、店の数が多く、村はずれにも出張小屋が設けられました。
各地から人が大勢集まり、市で買い物をしたことが、古い書籍からうかがえます。

徳川幕府や公卿から注文を受け、越後縮(御用縮)を納めていた十日町の縮問屋「加賀谷」も、この毘沙門天の市に出店し、縮の買い集めと反物の販売を行っていたと言います。

縮の販売で堀之内とトラブル!?


この毘沙門堂の市とは別に、現在の魚沼市堀之内では4月に「縮市」が開催されていました。

堀之内も三国街道の宿場として栄えた町です。

江戸から三国峠を越えて長岡に向かう途中にある宿場は、
湯沢・関・塩沢・六日町・五日町・浦佐・堀之内……。
浦佐の次の宿場が堀之内です。

堀之内は京都・大阪からの文化の影響を受けた町のひとつです。
9月に開催される「堀之内十五夜まつり」の神輿や屋台の華やかな色使いに上方文化の
片鱗が見えます。

十日町、小千谷、塩沢と同じように縮の産地だった堀之内では、毎年4月に冬の間に織った反物を販売する「越後縮市」が開催されていました。

ところが、毘沙門堂の市のほうが人手が多く賑わうことから、堀之内の農民たちは縮を浦佐で売ろうとしました。
これが原因となり、嘉永元年(1848年)に堀之内と浦佐の市関係者が対立します。

ちなみに、嘉永元年の江戸幕府征夷代将軍は第12代・徳川家慶。孝明天皇の時代。
嘉永6年(1853年)にペリー提督の黒船が浦賀沖にやって来た、時代の変わり目の時です。


ここで登場!若松屋市四郎の息子・起兵衛さん!


浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張って、その中で近隣(堀之内の人とかでしょうね)から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】


ちなみに坂西家は、裸押合い祭で年男が使う、ササラを奉納する江戸時代の大割元です。

起兵衛は買い集めた縮を、江戸に商売に行く、柏崎や松之山の仲買人に斡旋していました。

菊紋入りの幕が張られていれば、中に入るのは難しいでしょうね。

菊紋入りの幕は、普光寺から持ってきたといいますから、坂西家で行われた縮の買い取りは普光寺公認だったのかもしれません。
山門を寄進した人の息子から頼まれたら、断ることはできないでしょうね。

なぜ、普光寺に菊入の幕があったのか……についてはくなったので、後日書きますね。

2017年2月21日火曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 「年男」と毘沙門天像の関係



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合祭りの中でも重要とされている「ササラ擦り」のシーンです。

ササラ擦りとは、毘沙門天に豊作を祈願して奉納する儀式。

人馬に担がれている年男が行います。

年男は祭りを主宰し、ササラ擦りなど重要な役目を担うキーマンです。

その年の十二支と同じ年に生まれた人をさして「年男」「年女」と言いますが、
浦佐毘沙門堂の裸押合い祭でササラ擦りを行う「年男」は、十二支の「年男」という意味ではありません。

家々で正月行事を司る家長としての「年男」の意味に近いと言えます。


浦佐毘沙門堂の堂守「井口家」


浦佐裸押合い祭の「年男」は代々「井口家」当主が務めると決まっています。


井口家は代々毘沙門堂の堂守を務める家で、裸押合い祭りをはじめ、毘沙門天や毘沙門堂にかかわる一切のことを管轄しているそうです。

これは、井口家のご先祖が毘沙門天像と深い繋がりがあるからなのです。



井口家のご先祖が沼に釣りに行った際、沼から毘沙門天の木像を引き上げたと言います。
※木像で丈は7寸か8寸(25cm弱)。



井口家ご先祖は毘沙門天像を家に持ち帰り、石の祠を建てて内鎮守として祀り、のちにその毘沙門天像を普光寺境内に安置したのです。



これとは別に、井口家のご先祖が毘沙門天堂を背負って浦佐にやってきたという伝承も残されています。


2017/03/03追記
井口家のご先祖は、丹波国(京都府)の吉祥院と称する当山派の山伏だったとのこと。



浦佐の毘沙門堂裸押合い祭における「年男」の役割は「神主」に似ているようでもありますが、祭り前の厳しい「行」を考えると、行者に近いと感じます。

年男は裸押合い祭で福物を人々に撒与ますが、毘沙門天の代理として行うため、祭り前には二週間の仮行と一週間の本行を行い心身を清めます。

裸押合い祭当日も、ササラ擦りが行われる時間まで、年男は本堂の一室に設けられる「行場」に籠ります。

裸押合い祭がおこなわれている毘沙門天堂から行場は離れていて、
行場から毘沙門堂へ移るとき、年男たちは不浄なものに接しないように、人馬に担がれて移動するのです。

「祭り」というとイベント的なイメージが浮かびますけれど、
浦佐の裸押合い祭の流れを知ると「本来は神聖な儀式だった」と身が引き締まる思いがしました。


ご本尊「毘沙門天像」について


裸押合祭の際、参拝の対象になる毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏で、木製(ツバキ)で作られていると言われています。

「北越雪譜」天保8年(1837年)にもツバキという記述がありますし、
「浦佐年中行事」宝暦4年(1754年)には
『毘沙門は立像二尺六七寸の椿の白木作 依之一村椿を大切にいたし』との記載があります。

本尊の毘沙門天像は金銅製で、普光寺の別行殿に安置されています。

前立仏の毘沙門天像、金銅製の毘沙門天像ともに、いつ作られたのかわかっていませんが、金銅製の毘沙門天像はインドの仏師・毘首羯磨(びしゅだるま)の作と言われています。

「南魚沼郡志」に『本尊毘沙門天は印度の毘首羯磨の彫刻に係ると言う 長さ二尺三寸 厨子に天正二十(1592)年云々と彫刻あり』という記述があります。

ちなみに、南魚沼市「龍沢寺」にも毘首羯磨が制作した文殊菩薩が安置されています。
龍沢寺に文殊菩薩を奉安したのは、上杉景勝の母・仙桃院(上杉謙信の姉)です。


話しを浦佐の毘沙門堂に戻します。


昭和23年(1948年)2月29日の魚沼新報に梶山賢朗住職(当時の普光寺住職)が書いた「本尊毘沙門天王について」という記事が掲載されました。

その中で本尊毘沙門天像は「金の甲を被り左の手に宝塔をささげ、右の手に如意宝珠をのせ、足下には藍婆、毘藍婆の二鬼を踏んづけている」と描写されています。

平成10年(1998年)に発行された「図説 十日町・小千谷・魚沼の歴史」に、旧浦佐毘沙門天像の本尊と伝えられている毘沙門天像の写真が掲載されていますが、足下に二鬼は踏んづけていません。

こちらの書籍に載っている毘沙門天像は、井口家の内鎮守に祀られていた毘沙門天像なのでしょうか。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう前、井口家が祀っている毘沙門天像に戦勝祈願をし、蝦夷平定後に再び訪れ住民の歓迎を受けたとのこと。

それ以後、毎年毘沙門堂を訪れてお祝いをしたのが、裸押合い祭の起源という言い伝えもあります。

大同2年(807年)に坂上田村麻呂が毘沙門天堂を建立して、金銅製の毘沙門天像を安置したという伝承も残っています。

蝦夷平定後、毘沙門堂を建てて、毘首羯磨作の毘沙門天像を本尊として安置した──という流れでしょうか?

「普光寺の明細書」慶応4年(1868年)に『本尊 多聞天 一体 木像 丈二尺三寸一分』と書かれています。
ここに「本尊」「木像」とあるのが気になりますが……。


坂上田村麻呂おお忙しの「大同2年」


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像が複数存在している話を書きましたが、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建てたとされている寺社が各地に存在しています。


「大同」は806年から810年までの4年間の年号。
平城天皇が即位しましたが、大同4年(809年)に病気のため弟の嵯峨天皇に譲位します。

坂上田村麻呂建立ではないけれど、大同2年に建立されたという謂れがある建物が全国各地に存在しています。著名なところだと清水寺や長谷寺。

その他、山の開山や鉱山の開坑も、大同2年という記述が複数見られます。

東北方面は坂上田村麻呂に関連した伝承、南は空海に関する伝承の大同2年建立という建物がたくさん!

この二人が全国各地を練り歩き寺社や神社をどんどん建てた……とは考えられないので、二人に縁のある人たちが関与したのかもしれません(笑)。

もしくは、大同2年よりのちの世。何らかの意図で、神社仏閣の建立年を大同2年に変更したのかも。


由縁があると「大切にしよう」という思いが強くなります。

土地や建物を後世まで残すために、様々な人物の名前を借りて、誰かが何かを守ろうと考えたのかもしれませんね。

古人が守り続けてくれたからこそ、昔の歴史を調べてワクワクすることができるのですから。

2017年2月18日土曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 1本の椿から作られた複数の毘沙門天像





こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、裸押合い祭りが開催される、普光寺境内の毘沙門堂です。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で

栃尾市の「巣守神社」のご神体「毘沙門天」と、浦佐の毘沙門天が同じツバキの木で作られているという伝承を紹介しました。

続けて調べたところ、巣守神社と同様に「浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた」という伝承が残っている毘沙門天像が新潟県内中越地方を中心に点在していることがわかりました。

毘沙門天像の大きさについて


浦佐の毘沙門天像は、木像のものと、金銅製のものがあることをご存知でしょうか?

押合祭のとき、参拝の対象になるのは、木製(ツバキ)の毘沙門天像で、毘沙門天堂内に安置されています。

ツバキでできている毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏です。

金銅製の毘沙門天像が本尊であり、坂上田村麻呂が泰安したといわれています。
本尊は普光寺の別行殿に安置されています。

巣守神社をはじめとした、中越地方の寺社に安置されている同じ木で作られていると言われているのは、浦佐毘沙門天堂内に安置されている、前立仏の毘沙門天像です。

この毘沙門天像の大きさに関する記述が複数の書籍に見られますが、それぞれ大きさの記述が異なります。

・江戸幕府の検地役人・土山藤右衛門が勘定奉行に提出した復命書(出張報告書のようなもの)「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)には、二尺六~七寸(80cm程)。

・会津藩の地誌「新編会津風土記」文化6年(1809年)には、二尺三寸余(70cm程)。

・江戸時代に越後魚沼の雪国の生活を描いた「北越雪譜」天保8年(1837年)では三尺五~六寸(1m10cm弱)。

・大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)と記されています。

しっかり採寸したのか目視によるものか。

それにより、大きさの記述に違いがでると思います。

もしかすると、それぞれの書籍が書かれた時代の毘沙門天が違っていた──
という可能性も否めません。


浦佐毘沙門天像が彫られたツバキの木はどこから来たのか?


鈴木牧之の「北越雪譜」に、浦佐の毘沙門天像は「椿沢という村にあったツバキの大樹を切って造った尊像と言われている」という記述があるように、毘沙門天堂内に安置されている前立仏の毘沙門天像は、椿沢の山にあったツバキの大樹を伐り、それを彫って造ったと伝えられています。

ツバキの大樹があったという椿沢は、現在の見附市椿沢町です。

浦佐には、見附市椿沢の毘沙門天と浦佐の毘沙門天は1本のツバキから彫られたという伝承が残っていますが、見附市椿沢の「椿沢寺」には、毘沙門天像が浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られたという伝承はありません。

ただし、椿沢寺には毘沙門天像のほかに、千手観音像が安置されていて、こちらはツバキの古木で作られていると伝わっています。

椿沢寺の千寿観音像は、和銅二年(709年)に行基が椿の木の霊示を受けて椿の古木で千手観音を彫刻したという伝承と、椿沢を通りかかった旅の僧が、倒れた椿の大木で三体の観音像を刻んだうちの一体である、という二つの伝承があります。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で、

栃堀の巣守神社にある毘沙門天像は、浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られているという伝承が残っていると書きましたが巣守神社にも、見附市椿沢から採取したツバキの木から二体の毘沙門天像を作り、一体を巣守神社もう一体を浦佐のご神体としたという伝承が伝わっています。

また、巣守神社の毘沙門天像を作ったツバキは、守門岳からとってきたという言い伝えもあります。

浦佐は見附椿沢の毘沙門天像と同じツバキで作られていると言い、
栃堀は浦佐と同じツバキで作られていると言う。

「どっちが本当なの!?」と思いますよね。
けれど「同じツバキで作られている」と伝承しているのは、見附と栃堀だけではないのです。


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像は何体あるの!?


柏崎・常福寺では昭和30年代の終わり頃まで、浦佐毘沙門堂と同じように3月3日に裸押合い祭りが開催されていました。

常福寺にも毘沙門天像があり、常福寺を建立した伝教大師が椿の古木で毘沙門天を三体作り、
上を高原田、下を浦佐、中を常福寺に安置したと言われています。

これ以外にも、浦佐の毘沙門天と同じツバキの木で作られているとされる伝承が残されている毘沙門天像が

・柏崎の常福寺、普広寺
・小千谷の多聞神社
・魚沼の守門村にある内鎮守、宝泉寺
・南魚沼の七尊観音堂

など、複数の神社仏閣に安置されています。


1本のツバキで何体もの毘沙門天像が作られたのか?


浦佐毘沙門堂内に安置されている前立仏の大きさは、著書により大きさがさまざまであるとお伝えしましたが、一番近世の大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」の二尺三寸(70cm程)で考えてみも、1本のツバキから1m弱の毘沙門天像が何体も制作できたとは考えられません。

椿は通常5~6mほどの高さになる常緑性の高木です。

では、大樹と言われている椿はどのくらいの大きさなのでしょう?

参考として、日本にある椿の大樹の大きさを記述させていただきます。

・京都府与謝野町「滝のツバキ」樹齢1200年を越える。樹高は9.7m、幹周約3.3m。

・千葉県成田市「伊能のツバキ」樹高6m、幹周3.5m。

・東京都大島町「小清水の大木」樹齢300年。樹高10m、幹周1.6m。

大樹、古木となりますと、樹勢が衰えて幹の空洞化が進んでいる場合もあります。
どんなに大きなツバキの木だとしても、枝分かれ部分もありますから、何体もの毘沙門天像を彫り出すのは難しいと思います。

各地の毘沙門天像は浦佐の毘沙門天像である可能性(推測)


もし、浦佐の毘沙門のツバキの毘沙門天像が複数存在していた、としたらどうでしょう。

そのように考える理由が、昭和6年に起った毘沙門堂の火災についての記事にあります。

浦佐の毘沙門堂は、坂上田村麻呂が大同2年(807年)に建立したと言われています。

どのような建物であったのかわかっていませんが、鎌倉時代には今の毘沙門堂と普光寺、大伽藍の輪郭が形成されていたようです。

「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)にも、江戸時代中頃には毘沙門堂は7間4面の荘重な御堂であったと記されています。

しかし、この御堂は、残念ながら昭和6年(1931年)の火災で焼失してしまいました。

今の毘沙門堂は、伊藤忠太(東京帝都大学名誉教授)設計により、昭和12年(1937年)に完成したものです。

昭和6年の火災で毘沙門堂は焼失。その時の記録として――。

・木像毘沙門天一躯
・吉祥天・善膩師童子の両脇侍
・八大夜叉八躯
・鬼子母神、賓頭盧尊各一躯

その他、仏具類を焼亡したとあります【新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗より】

秘仏である本尊は火災を逃れましたが、木像の毘沙門天「一躯」が焼亡しています。

火災の後、木像の毘沙門天像が作られたという記述が見受けられないので、現在毘沙門堂に安置されている前立仏の毘沙門天像は、昭和6年の火災を逃れた毘沙門天像ということになると思うのですが……。

昭和6年の火災で木像毘沙門天一躯が消失したということは、現存している前立仏の毘沙門天像と消失した木像毘沙門天像、少なくとも毘沙門天像は2躯あったということですよね。

先に紹介した過去の書籍は、それぞれ毘沙門天像の大きさが異なります。

・「浦佐村年中行事」二尺六~七寸(80cm程)。
・「新編会津風土記」二尺三寸余(70cm程)。
・「北越雪譜」三尺五~六寸(1m10cm弱)。
・「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)。

それぞれの書籍の著者が見た毘沙門天像が全て異なっていたという可能性もありますよね?

出雲崎町「多聞寺」の本堂に2体の毘沙門天像が安置されていますが、そのうちの1体が、浦佐から招来された毘沙門天像として伝わっています。

多聞寺参道前にある石碑には、多聞寺が浦佐毘沙門天の御分体を安置し、出張所を作って活動していたという刻字がされています。

残念ながら、多聞寺の毘沙門天像は秘仏とされていて普段は見ることができませんので、
どのような立像なのかわかりませんが、複数の毘沙門天像が作られ、出雲崎の多聞寺と同じような形で、浦佐から各地に毘沙門天像が送られていたとしたらどうでしょう?


ツバキと上杉謙信と毘沙門天でブランディング


ツバキは古来より「神が宿る木」として、現在でも「霊木」とされています。

浦佐では毘沙門天像がツバキから作られているというので、ツバキを薪にすると祟りがあると言われ、ツバキの木を植える人がいないと「北越雪譜」に書かれています。

そして、浦佐の毘沙門天像をつくったツバキと同一のツバキからつくられている毘沙門天像があると言われている見附の椿沢寺は、上杉謙信の祈願所として庇護を受けていました。

謙信は、行基により彫られたという千手観音を信仰し、戦勝祈願に訪れたそうです。

そして結願の礼として、椿沢寺に仏具や枕屏風、茶がめなどを寄進しています。

上杉謙信は「自分は毘沙門天の生まれ変わりである」と信じ、毘沙門天を深く信仰していました。

浦佐の毘沙門堂も上杉謙信との関連があり、天正3年(1575年)に謙信は北条氏政壊滅祈願のため、代理人を浦佐の毘沙門堂に参籠させています。

浦佐の毘沙門天は、古くから越後有数の霊験神として崇められ、武門階級は武の神として、農民は農業の神、商人は養蚕の神として信仰していました。

霊木のツバキ、戦国時代最強の武将と言われた上杉謙信、その謙信が崇拝した毘沙門天。
三拍子揃った浦佐の毘沙門天は神格化されていたはずです。

その毘沙門天と「同じ木」で作られているとなれば、参拝する人も増えることでしょう。
また、格式や権威を得ることができたはずです。

浦佐に置かれていた毘沙門天像が、出雲崎町「多聞寺」のように、出張して設置されることになったのか。

はたまた、同じ椿の木で作られたのか。

同じ木で作られている話になったのか。

真相はわかりませんが、古くから各地で、毘沙門天像のブランディングが行われていたのかもしれませんね。

2017年2月6日月曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭







こんにちは、魚沼工房のさとうです。
新年を迎えたかなぁと思ったら、あっという間に節分が過ぎてしまいましたね。

月日が過ぎるのが早いです。
前倒しで行動しないと、置いていかれるばかり……。

ということで!
今日のイラストは、3月3日に開催される、浦佐毘沙門堂裸押合い祭!


2017年の開催は金曜日となります。



前夜祭 3月2日(木)
・ご祈祷⇒午後6時~8時
・点火式⇒午後8時~

大祭当日 3月3日(金)
・稚児行列、福餅撒与など⇒午前8時30分~
・押合、弓張撒与、福餅撒与など⇒午後5時~午後10時45分



浦佐の裸押合い祭は、日本三大奇祭のひとつで、国の無形民俗文化財に指定されていて、大きなローソクを使うことから「大ローソク祭り」とも言われています。

ローソクの重さは約30kg~50kg。
その製造工程は秘伝とのこと。


祭りの起源は、坂上田村磨が浦佐に御堂を建て、毘沙門天王を祀り、
将士や村人と共に国家安穏と戦勝を祈願、五穀豊穣・家内安全・身体健康を祈り、
祝宴を開催し、士気を高めたことと言われています。


また、化け猫退治が祭の始まりという説もあります。

毘沙門に住みついた猫が年をとって化け猫になり
毘沙門堂の堂守(どうもり)を次々と食い殺してしまった。

村人たちが化け猫退治を思案しているとき、一人の修行僧が毘沙門堂を訪れ
村人たちとともに化け猫を退治したという。

このとき、 化け猫にむしろをかぶせ「サンヨ、サンヨ」と掛け声をかけて、
化け猫を踏みつけた。

そのため浦佐では、毎年3月3日に御堂にむしろを敷き、
「サンヨ、サンヨ」という掛け声を唱えながら裸押し合い祭りをするようになったといいいますが、押合い祭で、様々な物が撒かれることからサンヨ=撒与の意味であると思います。


かつては、日光東照宮の「眠り猫」を彫った名工・左甚五郎の作とされる原形を元
「魔除けの猫面」が、毘沙門堂門前で売られていたそうです。

昭和初期に作り手がいなくなりましたが、
魚沼出身の画家・早津剛氏が古い猫面を発見し
猫面の復元が行われ、11980年代に「魔除けの猫面」は復活を果たしたのです。


じつは……。
魚沼工房のさとう。


高校のとき、早津先生と一緒に猫面制作していました(笑)


和紙をすいて、その和紙を石膏でつくった猫のお面に重ねて
乾いたら石膏形からはずし、目と口に色をつける。

伝統文化に触れることができました。
和紙作り、猫面作り、楽しかったです。
良い経験をさせていただきました、ありがとうございます、早津先生!

2017年1月25日水曜日

幻想スケッチラフ画 タイトル:コスモゾーンへ




こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、とよじいのスケッチブックラフ画から、謎の絵です(笑)

イラストの下部に「コスモゾーン」という文字が見えますね。
コスモゾーンってなに? と思い、ネット検索してみましたよ~。

どうやら、巨匠・手塚治虫が作った言葉のようですね。

「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」というアニメ映画が、手塚先生監修により1980年に公開されています。
「コスモゾーン2772」は未確認宇宙生命体。危機に瀕した地球を救うためのカギを握ってる存在。

とよじいのスケッチは、いつ描かれたのか年月がわかりませんが「歩道橋」にてと書かれています。
歩道橋で思いついたのでしょうか? なぞ~。

先日、テレビ番組の「やりすぎ都市伝説」を観ました。
「信じるか、信じないかは、あなた次第です」のアレです。

人工知能についての紹介が……。
siriやイライザ、ゾロタクスゼイアンなどですね。
気になる方、調べてみてね~♪

「やりすぎ都市伝説」を観る前、ヒストリーチャンネルで「古代の宇宙人」シリーズを観たのですが、そこでも人工知能や、次なる人類(人類の進化)などについて描かれていました。体内にチップを埋め込んで、脳の能力を……のような話です。

人工知能や機械人間というと、映画「ターミネーター」やアニメ「銀河鉄道999」を思い浮かべ、イコール悪という認識を抱いてしまいますが、

人工知能、器械人間も人類の進化の過程なのかなぁと思いました。
どんな方向に向かっていくのか、わかりませんけど

その後、ドラえもんのCGアニメ映画「STAND BY ME ドラえもん」をチラっと見ました。
そこで、はたと気づいたのです。

トラえもんもロボットだ!

でも、私たちはドラえもんをロボットと思っていません。
「STAND BY ME ドラえもん」の中で、大人ののび太が子どもののび太に
「ドラえもんは君の子どもの頃の友達だから」というセリフがありました。

ロボットだけど、友だちなのです。

「やりすぎ都市伝説」の中でも、ゲストの的場浩司がAIについて
「ドラえもんだと思えばいいんだ」と言っていました。

これに対して、ミスター都市伝説の関暁夫が「よかったぁ!」と安堵の声を漏らしました。
関さんは、ずっと都市伝説でAIについて説明してきたけど、理解(このときの的場さんのように)してもらえなかった、といったことを言っていました。

詳しく語れないこともあり、その中で様々な説明を行っていたのだと感じます。

機械との融合やAIとの関係は、ドラえもんとのび太のようなものだと思えばいいのかな、と個人的に思いました。


はっ!

最初に手塚先生の話がでたわけですから、アトムと言うべきだったのかも(汗)

2017年1月23日月曜日

瞽女のイラスト



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、雪道をゆく瞽女さんです。

瞽女さんは、三味線や琴を弾き語りながら、各地を巡る盲目の女性芸能者のことを言います。
近年まで活躍されていた、小林ハルさんは「長岡瞽女」と呼ばれています。

私が子どものころ、冬の寒い日、瞽女さんが家を訪れたことがあります。
とよじいと清子と一緒に、瞽女さんの弾き語りを聞いたのですが、
子どもでしたからね、怖いというイメージを抱きました。

先頭の女性の肩に手を置き、その人の肩に後ろの人が手を置く。
列になり、瞽女さんは暗い雪の中を歩いて行きました。

さて、今日のイラストはツギハギだらけですが、実際はツギハギではありません。
スキャナに紙が入らず、分けてスキャンしたところ、ツギハギ状態になりました。

おしゃれかなと思って、そのまま加工せず、ツギハギでアップさせていただきました。

紙のサイズはA3×1.5ほどでしょうか?
いわゆる、大洋紙に書かれているのですが……。

大洋紙? と思った人がほとんどですよね。

新潟県民の方、大洋紙は他県では通じません。
大洋紙ではなく、模造紙です。

大きな紙ということで、新潟県では大洋紙と言います。
ちなみに、wiki先生によると、
山形県では大判紙。富山県ではガンピ。
鹿児島では広幅用紙。九州では広用紙。

など、その土地土地で呼び方が変わるようです。

詳しくは⇒゛模造紙”の呼び方で出身地がわかる

共通語や共通の風習だと思っていたら「違うの!?」
と気付いたときのカルチャーショックっていったらねぇ、アナタ。

今年の夏、平等院に行ったとき、お正月のお焚き上げでスルメを焼くのは新潟だけだって知ってビックリでしたよ。

「なんで、平等院とスルメが結びつく!?」のかについては、機会があったらお話しさせていただきますねぇ。

2017年1月22日日曜日

八海山のイラスト 折立温泉遊歩道から望む八海山

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、折立温泉遊歩道から望む、八海山です。

折立温泉遊歩道は、魚沼市の下折立付近にある散策路です。
折立釈迦堂へと繋がる階段を登り遊歩道へと入ります。
標高475mの小高い丘からは、八海山や駒ヶ岳が眺望できます。
U字を描くように丘を散策し、諏訪神社裏にある下折立農村公園にでます。

遊歩道終点付近に「大久保のブナ林」というところがありますが、
こちら、新潟県のブナ林100選に選ばれていますよ。

下折立で調べていましたら「下折立の百八灯雪まつり」の写真を見つけました。



折立温泉「百八灯」

毎年3月の第一日曜日に、山の尾根に108の篝火が並ぶそうです。

これ、とよじいがイラスト描いていました!
お正月に帰郷したとき、とよじいの部屋をあさっていたとき、
祭りのイラストの中から出てきたのです。

「この祭り、しらねぇろう(知らないだろう)」と、とよじい自慢げに言っていました!

稲荷大明神に無病息災、五穀豊穣を祈願して、尾根に108の篝火を並べるそうです。
江戸時代から続く伝統行事。幻想的なお祭りですねぇ。
2017年3月第一日曜日だと、3月5日ですね。

「百八灯」のイラストは、後日アップしますね♪

2017年1月21日土曜日

八海山のイラスト

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、八海山ロープウェー麓駅から望む、八海山。

とよじいは、イラスト内に「山口ゴンドラ場」と書いてありますが、
八海山ロープウェーの登り口です。

麓駅の住所が「山口」で、ロープウェーの前は4人乗りのゴンドラが運行されていたのです。

八海山ロープウェイは、山麓駅から4合目(山頂駅)まで運行しています。
山頂駅まで5分ほどで到着します。
四季それぞれの山の様子がパノラマで楽しめます。

ロープウェイを利用することで、八海山への登山時間が短縮できます。
とはいえ、八海山山頂の八ツ峰は登山素人が挑むには難しい場所。
アップダウン&鎖場続きで、かなりの難所です。
大日岳までの征服コースは上級者向けで、ロープウェーを使って往復6時間以上かかるようです。

八海山ロープウェイは1983年から2001年まで、4人乗りのゴンドラが運行していました。
風に弱く、運休することが多かったそうですが、現在は運休が少なくなったそうです。

八海山ロープウェイの運行は4月から11月。
朝8時ころから夕方の4時頃まで行き来しています。

今は冬でお休みですが、春になったら新緑が綺麗ですよ。
カタクリ群生地があり、4月下旬から5月上旬までカタクリの花が楽しめます。

山頂駅付近には、展望台や展望デッキもあり、周囲の景色が望めます。
パターゴルフや渓流広場など、レジャーを楽しむ施設も。

八海山山頂までの登山だけではなく、景観や自然を楽しむことができますよ。
春になったら、八海山ロープウェーに乗ってみようかな♪

2017年1月20日金曜日

権現堂のイラスト 権現堂の弥三郎バサ

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、権現堂山から望む「八海山」です。

権現堂、権現堂とよく、とよじいが言っているのですが、
権現堂山は上権現堂と下権現堂とにわかれているのですね。

この山は、弥三郎バサが住んでいる山ではないか!

「悪い子になると、権現堂から弥三郎バサがくる」
子どもの頃に、言われた方も多いのではないでしょうかね。

弥三郎バサがなにものかわからず、恐怖心だけが余計につのるというね。

弥三郎バサの民話は、じつは悲しい物語なのです。

弥三郎という猟師と妻、息子が暮らしていましたが、
弥三郎は雪山に猟に向かい戻ってこなかった。
その息子も猟師になったが、猟から戻ってこなかった。
息子の嫁は悲しみのあまり後を追って死に、
残された乳飲み子を、弥三郎の妻が育てていた。

弥三郎の妻は、孫のために近隣に乳をもらいあるいたが、
最初同情していた村人たちも、しだいに弥三郎の妻をうとましがるようになり、
猟師という職業から殺生による罰とののりし、村八分にされた。

孫は餓死し、弥三郎の妻は鬼と化し、人の子をさらって食らうようになった。
のちに、えらいお坊さんに諭され、弥三郎バサは改心し、
妙多羅天女という名を授かった。

wiki先生によると、 妙多羅天女というのは、
神仏、善人、子供の守護者で、悪霊退散の神。
縁結びの神様でもあるそうです。

新潟県とお隣の山形県で祀られている神様ということ。

弥彦神社に隣接して、 妙多羅天女が祀られているそうですね。

弥三郎バサの伝説は様々あるようで。
猫が弥三郎バサを食って、弥三郎バサになりすましたというものもあります。

弥三郎バサよりも、弥三郎という人物のほうがキーマンかもしれません。

織田信長に小姓として仕えていた、加藤弥三郎という武将がいます。
鎌倉時代の武士、 鳥海弥三郎という方もいますね。

伊吹山(滋賀県)に住んでいた大男、伊吹弥三郎の伝説もありますね。
伊吹弥三郎は富士山を作ったとか!

弥三郎という名前、ポピュラーだったようですね。
かっこいい名前だったのかな、流行の名前。

2017年1月19日木曜日

八海山大崎火渡り大祭のイラスト





こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、八海山大崎の火渡り大祭です。
毎年、10月20日に開催されます。

大寒の寒修行の時期に、季節外れのイラストアップですが、お許しを~。

火渡り大祭が行われる八海山尊神社では、
1月28日から2月3日の節分まで、行者のかたが瀧に打たれ、胡麻祈祷を行い
厳しい修行を通じての祈念が行われます。

満願の日が節分祭となり、
さまざまな福物がまかれます。

節分祭は昼の部、夜の部の2回開催されます。

詳しくは、八海山尊神社のHPをご覧ください♪

2017年1月16日月曜日

八海山信仰と十二山神社の関係性 八海山のイラスト

Mt.Hakkaisan


こんにちは、魚沼工房さとうです。

今日のイラストは、大力山から望む「八海山」です。


先日「山の神の日はなぜ12日なのか?
この中で、魚沼地方に十二山神社が多く、その理由は八海山と八海山を訪れた修験者が関係していると書きました。

南魚沼地方に位置する「八海山」は、木曾御嶽信仰の霊山です。
「なんで、木曾御嶽?」と思われますよね。

それは!

八海山を開山したのが、木曾御嶽山を開山した普寛だからです。
八海山麓に住んでいた泰賢を弟子にして、一緒に八海山を開山したと言います。

808年に空海が登り、8つの池があったので八海山と名付けたという伝承もあります。

この八海山の本地仏は薬師如来ですが、木曾御嶽信仰の霊山ともされていて、
八海山大頭羅神王が鎮座する山としても信仰されています。

行者の活動にともない、八海山が霊山として人々の間に広まり、
山の麓にある神社も増えて行きます。

東洋大学ライフデザイン学部健康スポーツ学科、菊池章太教授の研究レポート「十二山ノ神の信仰と祖霊観」に、なぜ「十二」なのかという考察が書かれています。

十二山ノ神は薬師如来の眷属である十二神将や、熊野十二所権現と関係があるのではないか、という説があるそうです。ここに、行者や修験者たちが関わっているのではないかと、先生は推測されています。

八海山の本地仏は薬師如来。薬師如来の眷属は十二神将。
行者が八海山信仰を広めた。

そして、新潟県には十二山神社、十二神社が多い。


木曾御嶽山信仰では、霊神碑という石の石碑を建てる習俗があります。
亡くなった方の霊神碑を建立するのですが、この際、霊神号というものが与えられます。

八海山にも、この霊神碑が多く見られますよ。
霊神碑には、霊神名が刻まれていますが、建立者の氏名や出身地が彫り込まれていることがあるそうです。
建立者の出身地は様々で、新潟県以外の人や長岡市周辺や上越、新潟市という文字も見られます。
このことから、八海山信仰が、新潟県内外に広まっているということがわかります。

菊池先生は、自然災害の多い土地は、山ノ神を祀り、祭礼の際に唱えごとをしていたとおっしゃっています。
祭礼の際に、厄除けの呪言が目立っていて、そこに、修験者が関与しているのではないかというのです。

八海山信仰と十二山神社の流れ、関係性がありそうですね。

菊池先生は
「十二というのは具体的な数を意味するのではなく、むしろ極まった数の観念として神威の大きさを表しているようにも思える」と書かれています。

人々が昔から、自然を恐れ敬っていたことが、極まった数である十二という数字に表れているのかもしれませんね。

2017年1月14日土曜日

八海山のイラスト 黒禿ノ道から望む八海山

八海山
Mt.Hakkaisan


こんにちは、魚沼工房さとうです。
雪がすごくて、朝から除雪でヘロヘロです。



過去記事、「カマキリは大雪は予想するのか!?」でも書いたのですが、ナンテンやナナカマドの実が多くつくと、大雪になると言われています。

うちのナンテンはあまり実がつきませんでしたが、お隣のナンテンは見事にたくさんの実がついています。

植物の大雪予想、当たるのかもしれませんね。

この雪、明日も続くようです。
どんげふるんだよ!
ちょっと落ち着いてほしいです。


さて、今日のイラストは黒禿の道から望む「八海山」です。
またでた、黒禿ノ頭。
「どこですか?」と思って地図を見ましたら、笠倉山の手前にあるようですね。

等高線的には笠倉山に入っているような……でも違うか。
佐梨川と水無川の間に、隆起した山々があるわけですな。

で、佐梨川と水無川の間にある山々の尾根をつたって越後駒ヶ岳へと行くわけですかね。
駒ヶ岳から中ノ岳、兎岳へと向かう。

はっ!

地図を見ていて、いま気づきました。
山の山頂が県境になっている! すごい! と、今更気づくアホの子です。
さらに、川も山と山の間を走っている。川のスタート地点も山から。
そして平地になったところに、町が存在する。

風水で気の流れを読むとはよくいったものですね。
山や川の位置を把握して、風の流れなどを読んだのでしょうね。

土地の名前や山の名前にも、その場所の環境や特徴などが潜んでいる場合があります。
「黒禿」という名前も気になりますが、由来はいまのところわかりません←さとうがわかっていないという意味。

黒く禿げてみえる山なのでしょうかね。
黒く禿げるって、どんな風なんじゃ!?

2017年1月13日金曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 山の神の日はなぜ12日なのか?

越後駒ヶ岳

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
いやぁ、ガッツリ雪が降りましたね。
先週の雪見展のときは、積雪がほとんどなかったのですが、ここ1日~2日で1m超えの積雪。ビックリです。

今日のイラストは、黒禿の頭ルートから望む「越後駒ヶ岳」です。
黒禿の頭ルートって……すごい名前ですよね。
黒禿の頭は魚沼市の旧小出町にある772mの山です。

さて、昨日は山の神の日でしたね。
12月12日も山の神の日ですが、1月12日も山の神の日。

山の神に関する記事はこちら。

12月12日は、山の神の日
大山祇神の元に送り返された磐長姫はどうしたのでしょうか?


その土地土地により、山の神の日が違っているようですね。

ただ「12日」という日にちがキーになっています。
なぜ、山の神の日は12日なのか?
「12」という数字にどのような意味があるのか?

じつは、昨日の記事で上田銀山について書いたのですが、銀山の採鉱がスタートした後、
採掘場付近に十二山神社が設けられたそうです。

ちなみに、樹海ラインから銀山に向かう途中、上折立付近にある十二山神社には、坑道で事故にあった方々の供養塔があるそうです。

この、十二山神社(もしくは、十二神社)は全国各地に存在しているようですが(600余)
そのうちの70%が新潟県に存在しているということです。
ちなみに、新潟県は日本で一番、神社の数が多い県です。

新潟県でもとくに、魚沼地方に十二山神社は多く存在していると言います。
近世になって合併などで名前は変わったけれど、元は十二山神社だったという神社もあるそうです。
明神社、権現社、諏訪神社に合祀されたようですね。

十二山神社は「山」の文字がつくことからもわかるように、山の神を祀っています。
十二山神社が存在する場所も、山の麓がほとんどです。

ではなぜ、十二という数字がでてくるのか?

岩手県九戸郡山形村には「山の神は女性で、一年に十二の子を産む」という伝承が残っています。
この、子どもを産む日が毎月12日と決まっているといいます。

山の神が出産する日が「12日」であるため、狩猟をおこなうマタギの人たちは
12日を山の神の日として、信奉し入山を禁止していたそうです。

12月12日は、一年のうちの「しまいの山の日」。
 1月12日は、一年のうちの「はじまりの山の日」として、山の神の日のなかでも、神聖な日なのです。
山小屋などで十二人が座すのはよくないとして、木の人形を作って山中の祠に置いておくという風習もあるようですよ。

1月12日は、山の神に12個の餅を備えるそうです。
ただし、おさがりの餅を女性は食べてはいけないと言います。
子どもが授からなかったり、不作になったりするからだそうです。
その日(12日)以外に、食べると多産や豊作に恵まれるそうですよ♪

しかしなぜ「12」という数字が神聖な日とされたのでしょうか?

一年十二カ月、十二支、十二神将……。

魚沼地方で十二山神社が多い理由としては、八海山と八海山を訪れた修験者が関係しているようですよ。
山の神の日が12日というのも、修験者に関係があるようです。

長くなったので、今日はここまで(話を引っ張るよぉ~♪)続きは後日。

2017年1月12日木曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 骨投沢の言い伝えを生み出した商人「河村瑞賢」

越後駒ヶ岳

今日のイラストは、八海山から望む「越後駒ヶ岳」です。

昨日、骨投沢の話を書かせて頂きました。
枝折峠を超えてはならぬ~骨投沢
銀山から採掘した銀を不正に持ち出させるのを阻止するため
(骨箱に入れて、里に持ち出そうとした人がいたので)
銀山を管理していた河村瑞賢は
「遺体や遺骨を、その沢を越えて持ち出そうとすると、明神様の祟りがある」
といういわれを作ったと言います。
その沢でみんなが骨を投げて行くので、骨投沢という名前がついたとのこと。

河村さん、なかなかのやり手です。

では、河村瑞賢とはどのような人物だったのでしょうか?
河村瑞賢は江戸時代の商人で、材木屋を営んでいました。

明暦の大火後、木曾福島の材木を買占め、土木建築を請負い、利益を得たといいます。
明暦の大火は別名「振袖火事」とも言われています。

お寺の小姓に一目ぼれをした梅乃が、彼に恋い焦がれるまま亡くなってしまう。
娘を憐れんだ両親が、娘が愛した振袖を娘の棺にかけてやる。この振袖が転売され、それを買った娘が無くなり、また振袖が棺にかけられ転売される……それを何度か繰り返す。
振袖に因縁を感じ、寺の住職が焼いて供養をしようとすると、にわかに風が吹き火のついた振袖が舞い上がる。

というような伝説があり、小泉八雲(池田美術館の常設展にゆかりの品が展示されている、ラフカディオ・ハーンさんですよ~♪)も小説として物語を描いています。
ただ、作り話という説があり、放火が原因という説もあります。

話しを、河村さんに戻しましょう。
やり手の河村さんは、幕府に見込まれ、公共事業に関わるようになります。
江戸廻りの東廻り航路や、日本海沿岸から瀬戸内海を廻り江戸に入る西廻海運を確立しています。
そのほか、淀川や木津川の治水工事なども手掛けています。

魚沼の人は「銀山」という名称で呼んでいますが、正式名称は「上田銀山」と言います。
高田藩管轄の銀山が「上田銀山」会津藩側の銀山が「白峯(しらぶ)銀山」という名称で、
この二つを合わせて、大福銀山と呼んでいたそうです。
ちなみに、白峯銀山のほうが後から発見されました。

河村さんは、高田と会津両方の大福銀山の管理を行っていました。
全国各地で築港、治水、開拓、採掘などを手掛けた、現在で言うと土木のエキスパートと言える人物ですね。
晩年は松尾芭蕉と交流していたそうですよ。
元禄12年に83歳で天寿を全うしたと言いますが、当時の人にしてみると、かなりの長生きですよね。
足を使って動いたのが長生きの秘訣でしょうか?

河村瑞賢さん。商人&土木、あと他にもなにかありそうな方ですね。

2017年1月11日水曜日

越後駒ヶ岳のイラスト 枝折峠を越えてはならぬ~骨投沢

駒の湯





今日のイラストは「越後駒ヶ岳」。駒の湯からの風景です。

年始に魚沼に帰郷したとき、とよじいに銀山のことを質問してみました。

銀山は昔、銀の採掘がおこなわれていたそうですが、
掘削しすぎて、河川の底を打ちぬいたため、川水が坑道内に入り込み
多数の死者をだし、以後、採掘が下火になっていったということです。

採掘した銀を麓まで運ぶための道が「銀の道」でした。

この採掘した銀を、自分の物にしようとしなかったのだろうか?
湯之谷付近で、銀細工などの店がなかったのだろうか?

と、以前、妹たちと話をしていたのです。
銀の工芸品などが魚沼に伝承されていないのが不思議だねと。

でも、一般人が銀を使うことなど、当時の幕府は許さなかったのでしょうね。
銀の持ち出し、持ち逃げは重い罪がかせられたようです。

銀を持ち出した者に石を抱かせ、拷問した場所が、銀山平のトンネル近くにある「石抱き」です。

そして、銀の道付近に「骨投沢」という沢があります。
この沢を越えるときは、親の骨も置いていかなければいけないという言い伝えがあったと
とよじいが言っていました。

遺骨を持って里に下りると言って、骨箱に銀を隠し持っていた人がいたそうです。
そこで、骨を持って沢を越えると、大明神がお怒りになり、祟りや罰が当たるという話しを
幕府の役人が作り出したと言います。
昔の人たちはそれを信じ、後世まで遺骨や遺体を持ち出さなかったそうです。

このいわれが迷信だと証明するため、近世になってからですが、
亡くなった親を(遺骨だったかな?)抱えて
骨投沢を越えた方がいらっしゃったと、とよじいが話してくれました。
もう一回、詳しく聞いてきますね。

その方の行動で、やっとみなさん、祟りはないのだと理解したということです。

とよじい、酔っ払っていたので、真偽のほどが定かではありませんので、
骨投沢については、要検証です。