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2023年6月12日月曜日

綾子舞 狂言 

 


柏崎市女谷の黒姫神社の祭礼(9月)で演じられる「綾子舞」。

女性が踊る「小歌踊」、男性が演じる「囃子舞」「狂言」の3種類をあわせて【綾子舞】というそうです。

イラストは狂言のエスキース。

狂言には「海老すくい」がありますよ。

2023年5月7日日曜日

【特別公開】浦佐毘沙門堂 楼門天井画 修復記念

 


南魚沼市 池田記念美術館で開催中(4/22~5/28)の特別公開展を見にいってきました。

浦佐毘沙門堂の楼門(天保2年 1831年に完成)二階にある天井画と板絵額が令和2年度から始まった修復作業を終え、寺外(池田記念美術館)で初公開されています。


展示後は楼門に再び戻されるそうですが、間近でじっくり見る機会は今後数百年はないとのこと! 撮影もOKでしたよ!

天井画に描かれた美しい天女と、板絵額に描かれた不思議な(個人的感想です)羅漢。

天女も羅漢も、美しい色のファッションとアクセサリーを身につけていて印象的でした。

※情けない感想で参考にならないと思います。気になったら池田記念美術館に見に行かれてください。



さらにさらに!

池田記念美術館さんで天井画と板絵額を展示している間、浦佐毘沙門堂の楼門(山門)二階も見学できます!

※楼門二階内は撮影禁止です。

楼門も見所まんさい!

天井画が外されているので、楼門の造りが見られるのですが、

建物内の造りや「すごい梁」は圧巻!

以前は地元の子ども達が楼門の二階で遊んでいたとガイドさんが教えてくれました。

天井梁にも昇っていたということで、木材の一箇所にチョークで記名がしてあるのを発見(見つけてね)。

楼門内には毘沙門天に仕える「28使者の像」が置かれていて、こちらも圧巻! 美の洪水です。

「28使者の像」の台座には、長岡藩主第9代牧野忠精の書が掘られています。

越後浦佐 普光寺 浦佐毘沙門堂 楼門二階見学会(見学会無料)

4月30日(日)

5月7日(日)

5月14日(日)

5月21日(日)

※いずれも10時~15時

毘沙門堂の楼門を見て、池田記念美術館に行って修復された天井画を見ると(逆ルートでも)

天井に画がはまったら、どんな空間になるのだろうか? とか、どうやって、天井画を楼門二階にあげるのだろうか? とか、想像が膨らみます。

楼門二階と池田記念美術館、両方見ると楽しいと思います。

楼門見学に行くと、池田記念美術館の割引券がもらえます。

あと、楼門の急な階段も!!

見所ではありますが、昇り降り、すごくすごく、気をつけてください。

2017年5月3日水曜日

佐渡鬼太鼓のイラストでつくったポチ袋


佐渡の鬼太鼓のイラストを使って、ポチ袋を作ってみました。

プリントアウトしてカット、のりで貼り付けるとポチ袋ができます♪

私の実家(トヨジイの住み家)や今の嫁ぎ先では、お祭りの際に「ご祝儀」をご祝儀袋に入れてお渡しするので「ご祝儀」と書いたのですが、ポチ袋ではご祝儀は渡さないですよね(汗)

水引のついている、祝儀袋で渡しますよね。

原寸サイズはA4半分くらいなのですが、拡大してプリントアウトしてご祝儀袋サイズにしてください。

画面向かって左の白い□部分は、お名前を書いていただければと思います。


日本のお祭りというのは、農耕に合わせた時期に行われるものが多いと思います。


春の田植え前⇒農耕の無事を願う。
秋の稲刈り前⇒収穫を願う、収穫への感謝。


農耕の神が春に山から下りてきて、稲作が終わると山に帰る。


その神様をお迎えする儀式と、感謝をしてお見送りをする儀式が春祭り秋祭りであるように感じます。


余談ですが……。
神様のお使い主がキツネとされていますが、稲の神様のお使いのキツネと仏教の神・荼枳尼天が乗っているキツネとがゴチャゴチャになって稲荷信仰が広まっています。


稲荷神は五穀をつかさどる「ウカノミタマ」で、ウカノミタマのお使いは白いキツネです。
荼枳尼天も白いキツネに乗っているので、余計混乱しているわけです。


話を戻しますね。


佐渡の鬼太鼓は、五穀豊穣・家内安全の祈願を結びつけた田楽から始まったといわれています。
田んぼに憑く悪霊を、鬼の踊りで祓うという意味があります。


鬼太鼓の舞も、佐渡各地で異なっていて、勇ましい舞もあれば、雅な舞もあり、翁が登場して豆を撒くものもあります。


それぞれの舞で、悪霊を田や里から追いだします。


能や狂言の舞にも、悪霊を祓う、追いやる、場違いであると気づかせる意味が込められているものがあるようです。


踊りを舞うことは、見る者を楽しませているだけではなく、見えない者への警告の意味もあるのでしょう。


また、見る側の喜びや楽しいという陽の気が、陰の気を押しやるということでもあるのでしょうね。


佐渡は能も盛んな地域です。


外海府からの悪霊の侵入を防ぐということで、鬼太鼓や能が守りの役目をしてくれているのかもしれませんね。

2017年5月2日火曜日

佐渡島 鬼太鼓のイラスト


今日のイラストは、佐渡島を代表する伝統芸能「鬼太鼓」のラフ画です。
「おにだいこ」ではなく「おんでこ」と読みます。

鬼太鼓は佐渡島の各地区で様々な形式があり、約120地区で鬼太鼓が伝えられていると言われています。

いくつか流派があり、一対の鬼が躍るものや、鬼がいない鬼太鼓(豆まき流)など形が違い、それぞれ見どころがあります。

4月になると、各集落で祭りが開催され、鬼太鼓が披露されます。

「え? 4月開催なの?」

5月の連休、GWが明日からスタートしますので、このお休みに鬼太鼓を見に行こう!
と思われたかもしれませんよね(私もです)。

鬼太鼓は4月披露がピークのようです(汗)が!

両津の若宮さん「八幡若宮社例大祭」が、5月5日に開催され、そちらで鬼太鼓が披露されます!
大祭「湊祭り」では鬼太鼓のほか。獅子、神輿、芸山車が繰り出し、見どころ満載です。

ちなみに、佐渡は能も盛んな地域で、世阿弥とも縁がある島です。
各地に能舞台が点在しており、春から夏にかけては薪能が開催されます。

5月6日には両津薪能が行われるので「八幡若宮社例大祭」と一緒に見学されてみてはいかがでしょうか?

話しを、鬼太鼓に戻しますね。

鬼太鼓の鬼は雄雌があり、舞の形が違います。また、面の形や衣装や髪の毛の色も違っています。

仁王様や狛犬と同じように、口が「あ」「うん」の形で異なります。

雄⇒「吽 うん」 口を閉じうる。
雌⇒「阿 あ」 口を開けている。

面の色は、雄が黒で雌が赤。
髪の毛(舎熊 しゃぐま)は、雄が黒で雌が白系。
衣装の上着が雄が紫などで、雌が赤系。

面は憤怒の業に見えるので、雄雌どちも雄に見えますが。
あ、でも。鬼女というだけあるから、どっちも雌に見える……が正しいのかな?

佐渡の鬼太鼓は歴史深く、由縁もあり、興味深い伝統芸能です。
GWに開催されるイベントなどについて、以下に記載させていただきます。

よろしければ是非、佐渡に足を運んでみてくださいね♪


【八幡若宮社例大祭 湊祭り】
開催日:5月5日
開催地:佐渡市両津湊213(八幡若宮神社)
アクセス:両津港から車で約1分
※鬼太鼓、神輿、芸山車など猟師町の雰囲気あふれる例祭。


【天領佐渡両津薪能】
開催日:5月6日 19:30から
開催地:佐渡市原黒724(椎崎諏訪神社能舞台)
アクセス:両津港から車で約5分
料 金:1,000円(運営協力金として)
演 目:羽衣~盤渉~

※薪能ライナーバスが運行されます(佐和田BS~金井~椎崎諏訪神社)
ライナーバスを利用する場合は、前日の17時までに「新潟交通佐渡」へお申込みください。
新潟交通佐渡 TEL:0259-52-3200 乗車運賃500円


【鼓童 佐渡宿根木公演2017】
佐渡発のパフォーマンス集団「鼓童」が、佐渡「宿根木」で、連続公演を開催中です。

開催日:4月29日~5月6日 11:00~,14:30~
開催地:佐渡市宿根木(宿根木公会堂)
アクセス:小木港から車で約10分
料 金:3,500円(中学生以上)1,500(4歳~小学生) ※当日は300円プラス


【佐渡國鬼太鼓どっとこむ】
佐渡の伝統芸能が一堂に会するイベント。地元特産品の販売もあります。

開催日:5月28日
開催地:佐渡両津湊 おんでこドーム
アクセス:両津湊より車で約1分

2017年3月3日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 ささら擦りについて



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のワンシーンです。

●浦佐毘沙門堂の写真については
浦佐毘沙門堂の境内【写真あり】をご参照くださいね。

さて先日、ササラ擦りのイラストをアップしました。
裸押合い祭のイラスト 浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係


ササラすりというのは、祭りのクライマックスに行われる行事です。

押合いと奉納品の参献と撒与品が繰り返し行われた後、夜11時頃にササラすりが始まります。
「サンヨウ、サンヨウ」の文句に合わせ、年男がササラをすり上げます。

簓(ササラ)とは、民族芸能や祭りなどで使われる楽器のようなものをさします。
様々な形がありますが、竹の先を細かく割って茶筅のようにしたササラや玉すだれのような形をしたものがあります。

浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のササラは(上記イラストのものと形状が異なりますが)竹でできていて「擦りササラ」と「受けササラ」があり、切り込みの形状が擦りと受けで異なっています。

擦りササラは縦に13本の切れ込みがあります。

13という数字は、毘沙門天の眷属である、五大鬼神の「五」と夜叉八大将の「八」を合わせた数字です。

五大明王
・不動明王
・降三世明王
・軍茶利明王
・大威徳明王
・金剛夜叉明王


夜叉八大将(八大夜叉大将)
・宝賢夜叉
・満顕夜叉
・散支夜叉
・衆徳夜叉
・應念夜叉
・大満夜叉
・無比力夜叉
・密厳夜叉

そして、受けササラには、横に30本の刻みがされています。

天地に刻みを入れ、その中に28本の刻みをいれるということです。

毘沙門堂の山門の二階には、毘沙門天の眷属である二十八使者の像が安置されています。

この擦りササラと受けササラを十字にクロスさせ年男は真言密教を唱えながら、一年の豊作を祈願します。

ササラは内側に擦ると凶作に、外に擦ると豊作になることから、外へ外へと擦ります。


唱える呪文は他人に聞こえてはいけないので、年男は声に出して唱えません。
また、声が漏れないように、音頭取りの人たちが、音頭歌を歌っているともいわれています。

このササラは、坂西家の当主が代々、奉納する習わしとなっています。

坂西家は江戸時代に大割元役を務め、裸押合い祭では村の「重立の旦那」として尊敬された特別な家。


そして、坂西家の当主の代がかわるごとに新しいササラを作りますが、ササラをつくる竹は京都石清水八幡宮の竹を使用し、制作は普光寺の大工棟梁が行います。

できあがったササラを、坂西家の御当主が毘沙門天に奉納するわけです。


音頭取りの家も決まっていて、鈴木家が代々世襲しており、脇音頭をとるのは、分家や鈴木家に縁のある人に依頼するそうです。

鈴木家は江戸時代、大割元・坂西家の祐筆であったという伝承が残っています。

余談ですが、3月3日当日は、坂西家の御当主は「藤原の姓を名乗り」裃(かみしも)を来て、大祭に参加するとのこと。

さあ、そして。

ササラ擦りが始まると、押合いをしていた人々が、年男の周りを輪になってとりかこみます。
輪は三重四重となり、ぐるぐると年男の周りを回り、音頭取りの人々が、音頭歌を歌います。

以前は、音頭取りの人々ではなく、年男がササラを擦りながら音頭をとったと、鈴木牧之の「北越雪譜」に描かれています。


当月三日に年男参ったりな。
立ったこそ道理や門の松がまっさるわ。
まんがわらに手かけて春が来たとうのばら。
わいらに着しようとて白い管の笠。
黄金の花が咲く四つ隅のように。
たーむこそ道理や実が入るとうて。
立ったこそ道理や米が降るとうて。


この七つの文句を七回ずつ繰り返し、四十九回歌います。
一句一句の間に、年男の周りを回る人々が「サンヨウ、サンヨウ」と合いの手を入れます。

四十九回の歌が終わると「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」と唱えられ、輪を描いていた群衆が二つに割れ、年男が人々の「来い来い来いよ」の声に導かれて、内陣に入りササラを本尊の厨子に納めます。

その後、御灰像十二体を撒与して祭りは終わります。

祭り全体が一つのストーリーになっているような感じですね。

ラストの「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」がですね……。
なぜ、浦佐は山が多いところなのに、海を描写するような文句なのかというのが謎です。

また、人波が2つに別れるというのと、ささらを厨子に納めるという行事が……。
モーセの出エジプト記と契約の箱みたい──と思いました。

そして、黄金の花が咲くというのがですね――。

年男、井口家のご先祖が「毘沙門天像を運んで浦佐にやってきた」という言い伝えもありますしね。

浪漫があるお祭りですよね。

【2019年3月追】
浦佐の裸押合い祭り、毘沙門堂が製鉄に関係があるのではないか、という民俗学の本を読みました。現在、調査中♪ネコしきが製鉄に関係ありそう。
毘沙門天は製鉄に関係しますもんね。



2017年3月1日水曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 多聞天額毫を得た人物「弘賢」の行跡


こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天裸押合い祭り際に設置される大蝋燭です。
毘沙門堂内の四本の大きな柱の上に、蝋燭を設置します。

四本柱の蝋燭は、浦佐・長岡・小千谷・見附から奉納されるそうです。


さて、先回は毘沙門市の縮売買の件を書きました。
今日はその続きを書かせていただきます。


嘉永元年(1848年)頃、毘沙門市で縮の買取を行ったことから、堀之内との間でトラブルが起きました。

浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張り、その中で近隣から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】

菊紋入りの幕が張られていたら、うかつにその中には入れないでしょう。
時代劇の水戸黄門が持っている印籠みたいな感じかな?

なぜ普光寺に菊紋入りの幕があったのか? ということですが。
それには、文化十二年(1815年)に普光寺の住職についた弘賢が関係しています。

弘賢は毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀した人物で、
三十三番観音だけではなく、数々の行跡を残しています。

調べたところ、多聞天額毫(がくごう)も弘賢が得ています。
この方は、毘沙門天信仰に力を入れたようですね。

山門を建立する際、住職は後任の賢空に変わっていましたが、弘賢の力が影響を及ぼしていたようです。

話しを、菊紋入りの幕に戻します。

弘賢は文政三年(1820年)から文政八年(1825年)にかけて、京都嵯峨院から、菊のご紋使用許可、菊紋の幕、多聞天額毫などを得ています。

弘賢は普光寺の住職についた二年後に、新義真言宗(真言宗の宗派のひとつ)を統括する「江戸四箇寺」のひとつ「真福寺」に移り住職となります。

その後、普光寺の塔頭寺院のひとつ文殊院の住職代行につきます。

塔頭(たっちゅう)というのは、高僧の墓という意味です。
えらいお坊さんのお墓の近くに、弟子たちが小庵をたてて墓守をしていたのですが、小庵が寺として独立したものが塔頭寺院となりますが、寺院の敷地内にある別の坊をさすこともあります。

普光寺には、文殊院をはじめ千手院、花蔵院、宝授寺、地蔵院、西泉院という六箇所の寺院が存在していましたが、江戸から明治期にかけて廃絶し、現在残っているのは千手院のみとなってしまいました。

参考までに六寺院の本尊は──。

千手院⇒千手観音菩薩
文殊院⇒阿弥陀如来
法授寺⇒薬師
花蔵院⇒正観音
西泉坊⇒弥陀
地蔵院⇒地蔵

この六箇所以外にも、昔はもっと塔頭寺院が塔頭があったようです。

弘賢は普光寺の寺宝となる仏舎利、弘法大師の真蹟(しんせき:実際に書いたとされる)大般若経、足利尊氏・同義満書状などを収集し、寺に納めました。

これは、弘賢が真福寺に関係していたから行えたことだと言われています。

また、裸押合い祭で井口家が行場に掲げる毘沙門曼荼羅も、攝州本山寺の毘沙門曼荼羅を写し取り、弘賢が寺に納めたそうです。

毘沙門曼荼羅というのは、毘沙門天と毘沙門天に使える28の夜叉を描いた曼荼羅。
浦佐毘沙門堂では、山門の楼上に毘沙門天二十八使者の彫像が安置されています。

弘賢がどんなビジョンを持って、毘沙門堂や普寺光を形作ろうとしていたが気になります。

曼荼羅の絵を見ていてフト
押合い祭も人々が輪を描くわけだから、体曼荼羅とも言えるかも……と思いました。

話があちこち散乱してしまいましたね。すみません。
毎度のことか(^^;)

それはそうと

調べれば調べるほど、浦佐の毘沙門堂は興味深いと感じました。
今後も追跡調査していきたいと思います。

2017年2月24日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門市でトラブル発生!【江戸時代】



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門堂の山門です。

浦佐毘沙門堂の山門は天保2年(1831年)に、若松屋市四郎(関市四郎)の寄進で建てられました。
若松屋は酒造業や物流も行っており、大きな富を築いたと言われています。

今回は、この若松屋市四郎の息子さんと、毘沙門市のお話をさせていただきます。

話しは山門から、毘沙門堂へと飛びます──。


毘沙門堂市と多聞天祭礼市


大同2年(807年)に、坂上田村麻呂が建立されたと言われている毘沙門堂がある南魚沼市浦佐は、信濃川に通じる魚野川の両岸に位置する町です。

現在は上越新幹線の停車駅がありますが、江戸時代は三国街道の宿場町の一つとして賑わっていました。

浦佐毘沙門堂では毎月3のつく日に護摩をたいたことから、3のつく日には多くの人が参詣に訪れ、その人たちを目当てにした市が立つようになりました。

裸押合い祭も、3のつく日に開催されますが、この日は「サンゲツミッカノゴメイニチ」として、いつにも増して毘沙門堂前は賑わいます。

また、旧暦8月から9月までは、毘沙門天の御護摩が行われ、五穀・養蚕の豊穣を祈願する参詣客が各地から訪れ、その参詣客を相手に多聞天祭礼市が開催されました。


毘沙門天と多聞天について【余談】


浦佐毘沙門堂の入り口の扁額にも「多聞天王」と書かれていますが、多聞天というのは、毘沙門天のもう一つの名前です。
仏教では毘沙門天は、持国天、増長天、広目天と共に、須弥山に住む帝釈天につかえる四天王とされています。

余談ですが、東寺の講堂にいらっしゃる帝釈天さんはイケメンですよねぇ♪
東寺の講堂の立体曼荼羅の配置図を見ていただけるとわかりますが、四天王が四方を固めています。

話しを、毘沙門天に戻します。
四天王の一尊として安置する場合は「多聞天」、単独で安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれています。
四天王としてユニットを組んでいるときは多聞天で、ソロ活動するときは毘沙門天ということですね。

毘沙門堂の扁額がなぜ「多聞天王」と書かれているのか? についても、知りたいですねぇ。要調査です。

ただ……先ほど東寺講堂の話を書きましたが、東寺講堂の立体曼荼羅の中央には大日如来が安置されています。
毘沙門堂の別当寺として建てられた、普光寺の本尊も大日如来です。

普光寺の住職であった弘賢が、毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀していますが、普光寺の大日如来を中心において、曼荼羅を敷こうとしていたのかもしれませんね。

毘沙門堂の毘沙門市


さて、毘沙門堂付近で開催されていた市ですが、毘沙門堂の市に足を運べば、なんでもそろうと評判だったようです。

ちなみに、江戸時代に売られていた品物は、食料品、日用品、衣類、鉄器、陶器など様々。

市には長岡や柏崎、三条の商人なども出店し、店の数が多く、村はずれにも出張小屋が設けられました。
各地から人が大勢集まり、市で買い物をしたことが、古い書籍からうかがえます。

徳川幕府や公卿から注文を受け、越後縮(御用縮)を納めていた十日町の縮問屋「加賀谷」も、この毘沙門天の市に出店し、縮の買い集めと反物の販売を行っていたと言います。

縮の販売で堀之内とトラブル!?


この毘沙門堂の市とは別に、現在の魚沼市堀之内では4月に「縮市」が開催されていました。

堀之内も三国街道の宿場として栄えた町です。

江戸から三国峠を越えて長岡に向かう途中にある宿場は、
湯沢・関・塩沢・六日町・五日町・浦佐・堀之内……。
浦佐の次の宿場が堀之内です。

堀之内は京都・大阪からの文化の影響を受けた町のひとつです。
9月に開催される「堀之内十五夜まつり」の神輿や屋台の華やかな色使いに上方文化の
片鱗が見えます。

十日町、小千谷、塩沢と同じように縮の産地だった堀之内では、毎年4月に冬の間に織った反物を販売する「越後縮市」が開催されていました。

ところが、毘沙門堂の市のほうが人手が多く賑わうことから、堀之内の農民たちは縮を浦佐で売ろうとしました。
これが原因となり、嘉永元年(1848年)に堀之内と浦佐の市関係者が対立します。

ちなみに、嘉永元年の江戸幕府征夷代将軍は第12代・徳川家慶。孝明天皇の時代。
嘉永6年(1853年)にペリー提督の黒船が浦賀沖にやって来た、時代の変わり目の時です。


ここで登場!若松屋市四郎の息子・起兵衛さん!


浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張って、その中で近隣(堀之内の人とかでしょうね)から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】


ちなみに坂西家は、裸押合い祭で年男が使う、ササラを奉納する江戸時代の大割元です。

起兵衛は買い集めた縮を、江戸に商売に行く、柏崎や松之山の仲買人に斡旋していました。

菊紋入りの幕が張られていれば、中に入るのは難しいでしょうね。

菊紋入りの幕は、普光寺から持ってきたといいますから、坂西家で行われた縮の買い取りは普光寺公認だったのかもしれません。
山門を寄進した人の息子から頼まれたら、断ることはできないでしょうね。

なぜ、普光寺に菊入の幕があったのか……についてはくなったので、後日書きますね。

2017年2月21日火曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 「年男」と毘沙門天像の関係



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合祭りの中でも重要とされている「ササラ擦り」のシーンです。

ササラ擦りとは、毘沙門天に豊作を祈願して奉納する儀式。

人馬に担がれている年男が行います。

年男は祭りを主宰し、ササラ擦りなど重要な役目を担うキーマンです。

その年の十二支と同じ年に生まれた人をさして「年男」「年女」と言いますが、
浦佐毘沙門堂の裸押合い祭でササラ擦りを行う「年男」は、十二支の「年男」という意味ではありません。

家々で正月行事を司る家長としての「年男」の意味に近いと言えます。


浦佐毘沙門堂の堂守「井口家」


浦佐裸押合い祭の「年男」は代々「井口家」当主が務めると決まっています。


井口家は代々毘沙門堂の堂守を務める家で、裸押合い祭りをはじめ、毘沙門天や毘沙門堂にかかわる一切のことを管轄しているそうです。

これは、井口家のご先祖が毘沙門天像と深い繋がりがあるからなのです。



井口家のご先祖が沼に釣りに行った際、沼から毘沙門天の木像を引き上げたと言います。
※木像で丈は7寸か8寸(25cm弱)。



井口家ご先祖は毘沙門天像を家に持ち帰り、石の祠を建てて内鎮守として祀り、のちにその毘沙門天像を普光寺境内に安置したのです。



これとは別に、井口家のご先祖が毘沙門天堂を背負って浦佐にやってきたという伝承も残されています。


2017/03/03追記
井口家のご先祖は、丹波国(京都府)の吉祥院と称する当山派の山伏だったとのこと。



浦佐の毘沙門堂裸押合い祭における「年男」の役割は「神主」に似ているようでもありますが、祭り前の厳しい「行」を考えると、行者に近いと感じます。

年男は裸押合い祭で福物を人々に撒与ますが、毘沙門天の代理として行うため、祭り前には二週間の仮行と一週間の本行を行い心身を清めます。

裸押合い祭当日も、ササラ擦りが行われる時間まで、年男は本堂の一室に設けられる「行場」に籠ります。

裸押合い祭がおこなわれている毘沙門天堂から行場は離れていて、
行場から毘沙門堂へ移るとき、年男たちは不浄なものに接しないように、人馬に担がれて移動するのです。

「祭り」というとイベント的なイメージが浮かびますけれど、
浦佐の裸押合い祭の流れを知ると「本来は神聖な儀式だった」と身が引き締まる思いがしました。


ご本尊「毘沙門天像」について


裸押合祭の際、参拝の対象になる毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏で、木製(ツバキ)で作られていると言われています。

「北越雪譜」天保8年(1837年)にもツバキという記述がありますし、
「浦佐年中行事」宝暦4年(1754年)には
『毘沙門は立像二尺六七寸の椿の白木作 依之一村椿を大切にいたし』との記載があります。

本尊の毘沙門天像は金銅製で、普光寺の別行殿に安置されています。

前立仏の毘沙門天像、金銅製の毘沙門天像ともに、いつ作られたのかわかっていませんが、金銅製の毘沙門天像はインドの仏師・毘首羯磨(びしゅだるま)の作と言われています。

「南魚沼郡志」に『本尊毘沙門天は印度の毘首羯磨の彫刻に係ると言う 長さ二尺三寸 厨子に天正二十(1592)年云々と彫刻あり』という記述があります。

ちなみに、南魚沼市「龍沢寺」にも毘首羯磨が制作した文殊菩薩が安置されています。
龍沢寺に文殊菩薩を奉安したのは、上杉景勝の母・仙桃院(上杉謙信の姉)です。


話しを浦佐の毘沙門堂に戻します。


昭和23年(1948年)2月29日の魚沼新報に梶山賢朗住職(当時の普光寺住職)が書いた「本尊毘沙門天王について」という記事が掲載されました。

その中で本尊毘沙門天像は「金の甲を被り左の手に宝塔をささげ、右の手に如意宝珠をのせ、足下には藍婆、毘藍婆の二鬼を踏んづけている」と描写されています。

平成10年(1998年)に発行された「図説 十日町・小千谷・魚沼の歴史」に、旧浦佐毘沙門天像の本尊と伝えられている毘沙門天像の写真が掲載されていますが、足下に二鬼は踏んづけていません。

こちらの書籍に載っている毘沙門天像は、井口家の内鎮守に祀られていた毘沙門天像なのでしょうか。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう前、井口家が祀っている毘沙門天像に戦勝祈願をし、蝦夷平定後に再び訪れ住民の歓迎を受けたとのこと。

それ以後、毎年毘沙門堂を訪れてお祝いをしたのが、裸押合い祭の起源という言い伝えもあります。

大同2年(807年)に坂上田村麻呂が毘沙門天堂を建立して、金銅製の毘沙門天像を安置したという伝承も残っています。

蝦夷平定後、毘沙門堂を建てて、毘首羯磨作の毘沙門天像を本尊として安置した──という流れでしょうか?

「普光寺の明細書」慶応4年(1868年)に『本尊 多聞天 一体 木像 丈二尺三寸一分』と書かれています。
ここに「本尊」「木像」とあるのが気になりますが……。


坂上田村麻呂おお忙しの「大同2年」


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像が複数存在している話を書きましたが、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建てたとされている寺社が各地に存在しています。


「大同」は806年から810年までの4年間の年号。
平城天皇が即位しましたが、大同4年(809年)に病気のため弟の嵯峨天皇に譲位します。

坂上田村麻呂建立ではないけれど、大同2年に建立されたという謂れがある建物が全国各地に存在しています。著名なところだと清水寺や長谷寺。

その他、山の開山や鉱山の開坑も、大同2年という記述が複数見られます。

東北方面は坂上田村麻呂に関連した伝承、南は空海に関する伝承の大同2年建立という建物がたくさん!

この二人が全国各地を練り歩き寺社や神社をどんどん建てた……とは考えられないので、二人に縁のある人たちが関与したのかもしれません(笑)。

もしくは、大同2年よりのちの世。何らかの意図で、神社仏閣の建立年を大同2年に変更したのかも。


由縁があると「大切にしよう」という思いが強くなります。

土地や建物を後世まで残すために、様々な人物の名前を借りて、誰かが何かを守ろうと考えたのかもしれませんね。

古人が守り続けてくれたからこそ、昔の歴史を調べてワクワクすることができるのですから。

2017年2月18日土曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 1本の椿から作られた複数の毘沙門天像





こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、裸押合い祭りが開催される、普光寺境内の毘沙門堂です。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で

栃尾市の「巣守神社」のご神体「毘沙門天」と、浦佐の毘沙門天が同じツバキの木で作られているという伝承を紹介しました。

続けて調べたところ、巣守神社と同様に「浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた」という伝承が残っている毘沙門天像が新潟県内中越地方を中心に点在していることがわかりました。

毘沙門天像の大きさについて


浦佐の毘沙門天像は、木像のものと、金銅製のものがあることをご存知でしょうか?

押合祭のとき、参拝の対象になるのは、木製(ツバキ)の毘沙門天像で、毘沙門天堂内に安置されています。

ツバキでできている毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏です。

金銅製の毘沙門天像が本尊であり、坂上田村麻呂が泰安したといわれています。
本尊は普光寺の別行殿に安置されています。

巣守神社をはじめとした、中越地方の寺社に安置されている同じ木で作られていると言われているのは、浦佐毘沙門天堂内に安置されている、前立仏の毘沙門天像です。

この毘沙門天像の大きさに関する記述が複数の書籍に見られますが、それぞれ大きさの記述が異なります。

・江戸幕府の検地役人・土山藤右衛門が勘定奉行に提出した復命書(出張報告書のようなもの)「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)には、二尺六~七寸(80cm程)。

・会津藩の地誌「新編会津風土記」文化6年(1809年)には、二尺三寸余(70cm程)。

・江戸時代に越後魚沼の雪国の生活を描いた「北越雪譜」天保8年(1837年)では三尺五~六寸(1m10cm弱)。

・大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)と記されています。

しっかり採寸したのか目視によるものか。

それにより、大きさの記述に違いがでると思います。

もしかすると、それぞれの書籍が書かれた時代の毘沙門天が違っていた──
という可能性も否めません。


浦佐毘沙門天像が彫られたツバキの木はどこから来たのか?


鈴木牧之の「北越雪譜」に、浦佐の毘沙門天像は「椿沢という村にあったツバキの大樹を切って造った尊像と言われている」という記述があるように、毘沙門天堂内に安置されている前立仏の毘沙門天像は、椿沢の山にあったツバキの大樹を伐り、それを彫って造ったと伝えられています。

ツバキの大樹があったという椿沢は、現在の見附市椿沢町です。

浦佐には、見附市椿沢の毘沙門天と浦佐の毘沙門天は1本のツバキから彫られたという伝承が残っていますが、見附市椿沢の「椿沢寺」には、毘沙門天像が浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られたという伝承はありません。

ただし、椿沢寺には毘沙門天像のほかに、千手観音像が安置されていて、こちらはツバキの古木で作られていると伝わっています。

椿沢寺の千寿観音像は、和銅二年(709年)に行基が椿の木の霊示を受けて椿の古木で千手観音を彫刻したという伝承と、椿沢を通りかかった旅の僧が、倒れた椿の大木で三体の観音像を刻んだうちの一体である、という二つの伝承があります。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で、

栃堀の巣守神社にある毘沙門天像は、浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られているという伝承が残っていると書きましたが巣守神社にも、見附市椿沢から採取したツバキの木から二体の毘沙門天像を作り、一体を巣守神社もう一体を浦佐のご神体としたという伝承が伝わっています。

また、巣守神社の毘沙門天像を作ったツバキは、守門岳からとってきたという言い伝えもあります。

浦佐は見附椿沢の毘沙門天像と同じツバキで作られていると言い、
栃堀は浦佐と同じツバキで作られていると言う。

「どっちが本当なの!?」と思いますよね。
けれど「同じツバキで作られている」と伝承しているのは、見附と栃堀だけではないのです。


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像は何体あるの!?


柏崎・常福寺では昭和30年代の終わり頃まで、浦佐毘沙門堂と同じように3月3日に裸押合い祭りが開催されていました。

常福寺にも毘沙門天像があり、常福寺を建立した伝教大師が椿の古木で毘沙門天を三体作り、
上を高原田、下を浦佐、中を常福寺に安置したと言われています。

これ以外にも、浦佐の毘沙門天と同じツバキの木で作られているとされる伝承が残されている毘沙門天像が

・柏崎の常福寺、普広寺
・小千谷の多聞神社
・魚沼の守門村にある内鎮守、宝泉寺
・南魚沼の七尊観音堂

など、複数の神社仏閣に安置されています。


1本のツバキで何体もの毘沙門天像が作られたのか?


浦佐毘沙門堂内に安置されている前立仏の大きさは、著書により大きさがさまざまであるとお伝えしましたが、一番近世の大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」の二尺三寸(70cm程)で考えてみも、1本のツバキから1m弱の毘沙門天像が何体も制作できたとは考えられません。

椿は通常5~6mほどの高さになる常緑性の高木です。

では、大樹と言われている椿はどのくらいの大きさなのでしょう?

参考として、日本にある椿の大樹の大きさを記述させていただきます。

・京都府与謝野町「滝のツバキ」樹齢1200年を越える。樹高は9.7m、幹周約3.3m。

・千葉県成田市「伊能のツバキ」樹高6m、幹周3.5m。

・東京都大島町「小清水の大木」樹齢300年。樹高10m、幹周1.6m。

大樹、古木となりますと、樹勢が衰えて幹の空洞化が進んでいる場合もあります。
どんなに大きなツバキの木だとしても、枝分かれ部分もありますから、何体もの毘沙門天像を彫り出すのは難しいと思います。

各地の毘沙門天像は浦佐の毘沙門天像である可能性(推測)


もし、浦佐の毘沙門のツバキの毘沙門天像が複数存在していた、としたらどうでしょう。

そのように考える理由が、昭和6年に起った毘沙門堂の火災についての記事にあります。

浦佐の毘沙門堂は、坂上田村麻呂が大同2年(807年)に建立したと言われています。

どのような建物であったのかわかっていませんが、鎌倉時代には今の毘沙門堂と普光寺、大伽藍の輪郭が形成されていたようです。

「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)にも、江戸時代中頃には毘沙門堂は7間4面の荘重な御堂であったと記されています。

しかし、この御堂は、残念ながら昭和6年(1931年)の火災で焼失してしまいました。

今の毘沙門堂は、伊藤忠太(東京帝都大学名誉教授)設計により、昭和12年(1937年)に完成したものです。

昭和6年の火災で毘沙門堂は焼失。その時の記録として――。

・木像毘沙門天一躯
・吉祥天・善膩師童子の両脇侍
・八大夜叉八躯
・鬼子母神、賓頭盧尊各一躯

その他、仏具類を焼亡したとあります【新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗より】

秘仏である本尊は火災を逃れましたが、木像の毘沙門天「一躯」が焼亡しています。

火災の後、木像の毘沙門天像が作られたという記述が見受けられないので、現在毘沙門堂に安置されている前立仏の毘沙門天像は、昭和6年の火災を逃れた毘沙門天像ということになると思うのですが……。

昭和6年の火災で木像毘沙門天一躯が消失したということは、現存している前立仏の毘沙門天像と消失した木像毘沙門天像、少なくとも毘沙門天像は2躯あったということですよね。

先に紹介した過去の書籍は、それぞれ毘沙門天像の大きさが異なります。

・「浦佐村年中行事」二尺六~七寸(80cm程)。
・「新編会津風土記」二尺三寸余(70cm程)。
・「北越雪譜」三尺五~六寸(1m10cm弱)。
・「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)。

それぞれの書籍の著者が見た毘沙門天像が全て異なっていたという可能性もありますよね?

出雲崎町「多聞寺」の本堂に2体の毘沙門天像が安置されていますが、そのうちの1体が、浦佐から招来された毘沙門天像として伝わっています。

多聞寺参道前にある石碑には、多聞寺が浦佐毘沙門天の御分体を安置し、出張所を作って活動していたという刻字がされています。

残念ながら、多聞寺の毘沙門天像は秘仏とされていて普段は見ることができませんので、
どのような立像なのかわかりませんが、複数の毘沙門天像が作られ、出雲崎の多聞寺と同じような形で、浦佐から各地に毘沙門天像が送られていたとしたらどうでしょう?


ツバキと上杉謙信と毘沙門天でブランディング


ツバキは古来より「神が宿る木」として、現在でも「霊木」とされています。

浦佐では毘沙門天像がツバキから作られているというので、ツバキを薪にすると祟りがあると言われ、ツバキの木を植える人がいないと「北越雪譜」に書かれています。

そして、浦佐の毘沙門天像をつくったツバキと同一のツバキからつくられている毘沙門天像があると言われている見附の椿沢寺は、上杉謙信の祈願所として庇護を受けていました。

謙信は、行基により彫られたという千手観音を信仰し、戦勝祈願に訪れたそうです。

そして結願の礼として、椿沢寺に仏具や枕屏風、茶がめなどを寄進しています。

上杉謙信は「自分は毘沙門天の生まれ変わりである」と信じ、毘沙門天を深く信仰していました。

浦佐の毘沙門堂も上杉謙信との関連があり、天正3年(1575年)に謙信は北条氏政壊滅祈願のため、代理人を浦佐の毘沙門堂に参籠させています。

浦佐の毘沙門天は、古くから越後有数の霊験神として崇められ、武門階級は武の神として、農民は農業の神、商人は養蚕の神として信仰していました。

霊木のツバキ、戦国時代最強の武将と言われた上杉謙信、その謙信が崇拝した毘沙門天。
三拍子揃った浦佐の毘沙門天は神格化されていたはずです。

その毘沙門天と「同じ木」で作られているとなれば、参拝する人も増えることでしょう。
また、格式や権威を得ることができたはずです。

浦佐に置かれていた毘沙門天像が、出雲崎町「多聞寺」のように、出張して設置されることになったのか。

はたまた、同じ椿の木で作られたのか。

同じ木で作られている話になったのか。

真相はわかりませんが、古くから各地で、毘沙門天像のブランディングが行われていたのかもしれませんね。

2017年2月6日月曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭







こんにちは、魚沼工房のさとうです。
新年を迎えたかなぁと思ったら、あっという間に節分が過ぎてしまいましたね。

月日が過ぎるのが早いです。
前倒しで行動しないと、置いていかれるばかり……。

ということで!
今日のイラストは、3月3日に開催される、浦佐毘沙門堂裸押合い祭!


2017年の開催は金曜日となります。



前夜祭 3月2日(木)
・ご祈祷⇒午後6時~8時
・点火式⇒午後8時~

大祭当日 3月3日(金)
・稚児行列、福餅撒与など⇒午前8時30分~
・押合、弓張撒与、福餅撒与など⇒午後5時~午後10時45分



浦佐の裸押合い祭は、日本三大奇祭のひとつで、国の無形民俗文化財に指定されていて、大きなローソクを使うことから「大ローソク祭り」とも言われています。

ローソクの重さは約30kg~50kg。
その製造工程は秘伝とのこと。


祭りの起源は、坂上田村磨が浦佐に御堂を建て、毘沙門天王を祀り、
将士や村人と共に国家安穏と戦勝を祈願、五穀豊穣・家内安全・身体健康を祈り、
祝宴を開催し、士気を高めたことと言われています。


また、化け猫退治が祭の始まりという説もあります。

毘沙門に住みついた猫が年をとって化け猫になり
毘沙門堂の堂守(どうもり)を次々と食い殺してしまった。

村人たちが化け猫退治を思案しているとき、一人の修行僧が毘沙門堂を訪れ
村人たちとともに化け猫を退治したという。

このとき、 化け猫にむしろをかぶせ「サンヨ、サンヨ」と掛け声をかけて、
化け猫を踏みつけた。

そのため浦佐では、毎年3月3日に御堂にむしろを敷き、
「サンヨ、サンヨ」という掛け声を唱えながら裸押し合い祭りをするようになったといいいますが、押合い祭で、様々な物が撒かれることからサンヨ=撒与の意味であると思います。


かつては、日光東照宮の「眠り猫」を彫った名工・左甚五郎の作とされる原形を元
「魔除けの猫面」が、毘沙門堂門前で売られていたそうです。

昭和初期に作り手がいなくなりましたが、
魚沼出身の画家・早津剛氏が古い猫面を発見し
猫面の復元が行われ、11980年代に「魔除けの猫面」は復活を果たしたのです。


じつは……。
魚沼工房のさとう。


高校のとき、早津先生と一緒に猫面制作していました(笑)


和紙をすいて、その和紙を石膏でつくった猫のお面に重ねて
乾いたら石膏形からはずし、目と口に色をつける。

伝統文化に触れることができました。
和紙作り、猫面作り、楽しかったです。
良い経験をさせていただきました、ありがとうございます、早津先生!

2017年1月23日月曜日

瞽女のイラスト



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、雪道をゆく瞽女さんです。

瞽女さんは、三味線や琴を弾き語りながら、各地を巡る盲目の女性芸能者のことを言います。
近年まで活躍されていた、小林ハルさんは「長岡瞽女」と呼ばれています。

私が子どものころ、冬の寒い日、瞽女さんが家を訪れたことがあります。
とよじいと清子と一緒に、瞽女さんの弾き語りを聞いたのですが、
子どもでしたからね、怖いというイメージを抱きました。

先頭の女性の肩に手を置き、その人の肩に後ろの人が手を置く。
列になり、瞽女さんは暗い雪の中を歩いて行きました。

さて、今日のイラストはツギハギだらけですが、実際はツギハギではありません。
スキャナに紙が入らず、分けてスキャンしたところ、ツギハギ状態になりました。

おしゃれかなと思って、そのまま加工せず、ツギハギでアップさせていただきました。

紙のサイズはA3×1.5ほどでしょうか?
いわゆる、大洋紙に書かれているのですが……。

大洋紙? と思った人がほとんどですよね。

新潟県民の方、大洋紙は他県では通じません。
大洋紙ではなく、模造紙です。

大きな紙ということで、新潟県では大洋紙と言います。
ちなみに、wiki先生によると、
山形県では大判紙。富山県ではガンピ。
鹿児島では広幅用紙。九州では広用紙。

など、その土地土地で呼び方が変わるようです。

詳しくは⇒゛模造紙”の呼び方で出身地がわかる

共通語や共通の風習だと思っていたら「違うの!?」
と気付いたときのカルチャーショックっていったらねぇ、アナタ。

今年の夏、平等院に行ったとき、お正月のお焚き上げでスルメを焼くのは新潟だけだって知ってビックリでしたよ。

「なんで、平等院とスルメが結びつく!?」のかについては、機会があったらお話しさせていただきますねぇ。

2017年1月20日金曜日

権現堂のイラスト 権現堂の弥三郎バサ

Mt.Hakkaisan

こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、権現堂山から望む「八海山」です。

権現堂、権現堂とよく、とよじいが言っているのですが、
権現堂山は上権現堂と下権現堂とにわかれているのですね。

この山は、弥三郎バサが住んでいる山ではないか!

「悪い子になると、権現堂から弥三郎バサがくる」
子どもの頃に、言われた方も多いのではないでしょうかね。

弥三郎バサがなにものかわからず、恐怖心だけが余計につのるというね。

弥三郎バサの民話は、じつは悲しい物語なのです。

弥三郎という猟師と妻、息子が暮らしていましたが、
弥三郎は雪山に猟に向かい戻ってこなかった。
その息子も猟師になったが、猟から戻ってこなかった。
息子の嫁は悲しみのあまり後を追って死に、
残された乳飲み子を、弥三郎の妻が育てていた。

弥三郎の妻は、孫のために近隣に乳をもらいあるいたが、
最初同情していた村人たちも、しだいに弥三郎の妻をうとましがるようになり、
猟師という職業から殺生による罰とののりし、村八分にされた。

孫は餓死し、弥三郎の妻は鬼と化し、人の子をさらって食らうようになった。
のちに、えらいお坊さんに諭され、弥三郎バサは改心し、
妙多羅天女という名を授かった。

wiki先生によると、 妙多羅天女というのは、
神仏、善人、子供の守護者で、悪霊退散の神。
縁結びの神様でもあるそうです。

新潟県とお隣の山形県で祀られている神様ということ。

弥彦神社に隣接して、 妙多羅天女が祀られているそうですね。

弥三郎バサの伝説は様々あるようで。
猫が弥三郎バサを食って、弥三郎バサになりすましたというものもあります。

弥三郎バサよりも、弥三郎という人物のほうがキーマンかもしれません。

織田信長に小姓として仕えていた、加藤弥三郎という武将がいます。
鎌倉時代の武士、 鳥海弥三郎という方もいますね。

伊吹山(滋賀県)に住んでいた大男、伊吹弥三郎の伝説もありますね。
伊吹弥三郎は富士山を作ったとか!

弥三郎という名前、ポピュラーだったようですね。
かっこいい名前だったのかな、流行の名前。

2017年1月5日木曜日

学問の神様「菅原道真」と「綾子舞」の関係



こんにちは。
お休みは今日まで明日から学校~。という人も多いかな?
宿題終わりましたか? 受験シーズンでもありますね。
なにかに打ち込むっていいですよね。うん、本当に。

変な前置きで、すみません。

今日のイラストは、柏崎市に伝わる伝統芸能「綾子舞」です。

上杉房能の奥方、綾子によって伝えられたといわれている踊りです。

房能は上杉謙信の父である、長尾為景に討たれました。上杉さんちと長尾さんちは、お家騒動というか、身内で争っていた時期があります。
房能は上杉謙信のおじいちゃん長尾能景の「能」の字を名前にもらったわけですが、上杉謙信のお父さん長尾能景は、房能の子ども(養子)定実を味方につけ、房能に反旗を翻します。

追いつめられた房能は、松之山の天水越で自害し、その弔い塚が存在しています。

綾子舞の伝承説には、菅原道真が巫女の文子に憑依し「北野の地に我をまつれ」という託宣があり、その舞を武士、北国武太夫が伝えたという一説もあります。

房能の奥方「綾子」も都から来た白拍子であったようです。

京の都から佐渡に至る、糸魚川・柏崎・佐渡というルートが存在していて、その地点地点に都の文化がもたらされているようです。

香川県まんのう町にも「綾子踊」というものが伝承されているそうです。こちらは、雨乞いの踊り。
女性が舞うのではなく、男性が女装して舞を奉納するといいます。

綾子踊には関係していませんが、888年に菅原道真が城山神社に籠り雨乞いの祈祷をしていますよ。

柏崎の綾子舞は高原田と下野と2つの座元があります。とよじいのイラストは下野の綾子舞かな、衣装を見ると。
高原田の衣装は、まんのう町の綾子踊の衣装と似ているところがあるような気がします。
高原田の「小切子踊」は、道真が九州に左遷される前、都七条坊門の娘「文」が夢のお告げにより、三条大橋のたもとで道真を見送って踊った踊りだそうです。

綾子と道真が関係しているのかなぁ、と調べてみたところ、道真の乳母が文子(あやこ)さんでした。
多治比文子が道真を祀ったことが始まりの「文子天満宮」が京都にありました。
文子さんは、乳母ではなく巫女という説もあるようですね。

全国各地で「天神様」として菅原道真が祀られていますが、舞の伝承と共に広まっていったのかもしれませんね。

2017年1月4日水曜日

佐渡の鬼太鼓 佐渡ののろま人形のイラスト 「の」が多い(*^_^*)

こんにちは。今日から仕事初めという方も多いと思います。
いよいよ、一年が動き出すという感じですよね。
2017年、どんな年になるのでしょうか。

今日のイラストは「佐渡島」の鬼太鼓とのろま人形です。

鬼太鼓のほうは、油絵を写真に撮ったものをスキャンしました。
のろま人形はクレパスかな?

個人的に今年、佐渡に行ってみたいなと思います。
薪能とか見てみたいです。