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2024年3月3日日曜日

3月3日


越後うらさの毘沙門さまは

国の宝よ福の神サ

三月三日の深雪の中で

裸はだしの押合い祭り

ハア、サンヨ、サンヨ、サンヨ、サンヨー 


越後浦佐 毘沙門堂裸押合大祭

令和2年度より開催日は3月第1土曜日に変更となっています。

令和6年度は3月2日(土)に開催されました。

今シーズンは積雪が少なく、3月1日(金)には根雪がなく土が出て、春のようでした。

1日2日の深夜から雪が降り始め、2日には地面が茶色から白へと変わり。

深雪の中で、裸はだしの押合い祭り

サンヨ、サンヨ。

2023年5月7日日曜日

【特別公開】浦佐毘沙門堂 楼門天井画 修復記念

 


南魚沼市 池田記念美術館で開催中(4/22~5/28)の特別公開展を見にいってきました。

浦佐毘沙門堂の楼門(天保2年 1831年に完成)二階にある天井画と板絵額が令和2年度から始まった修復作業を終え、寺外(池田記念美術館)で初公開されています。


展示後は楼門に再び戻されるそうですが、間近でじっくり見る機会は今後数百年はないとのこと! 撮影もOKでしたよ!

天井画に描かれた美しい天女と、板絵額に描かれた不思議な(個人的感想です)羅漢。

天女も羅漢も、美しい色のファッションとアクセサリーを身につけていて印象的でした。

※情けない感想で参考にならないと思います。気になったら池田記念美術館に見に行かれてください。



さらにさらに!

池田記念美術館さんで天井画と板絵額を展示している間、浦佐毘沙門堂の楼門(山門)二階も見学できます!

※楼門二階内は撮影禁止です。

楼門も見所まんさい!

天井画が外されているので、楼門の造りが見られるのですが、

建物内の造りや「すごい梁」は圧巻!

以前は地元の子ども達が楼門の二階で遊んでいたとガイドさんが教えてくれました。

天井梁にも昇っていたということで、木材の一箇所にチョークで記名がしてあるのを発見(見つけてね)。

楼門内には毘沙門天に仕える「28使者の像」が置かれていて、こちらも圧巻! 美の洪水です。

「28使者の像」の台座には、長岡藩主第9代牧野忠精の書が掘られています。

越後浦佐 普光寺 浦佐毘沙門堂 楼門二階見学会(見学会無料)

4月30日(日)

5月7日(日)

5月14日(日)

5月21日(日)

※いずれも10時~15時

毘沙門堂の楼門を見て、池田記念美術館に行って修復された天井画を見ると(逆ルートでも)

天井に画がはまったら、どんな空間になるのだろうか? とか、どうやって、天井画を楼門二階にあげるのだろうか? とか、想像が膨らみます。

楼門二階と池田記念美術館、両方見ると楽しいと思います。

楼門見学に行くと、池田記念美術館の割引券がもらえます。

あと、楼門の急な階段も!!

見所ではありますが、昇り降り、すごくすごく、気をつけてください。

2018年6月8日金曜日

一村尾太々神楽面を作った、南魚沼の名工「北川岸次」とは?



一村尾 太々神楽


今日のイラストは、南魚沼市一村尾地区の太々神楽。

江戸時代より伝承されている神楽で、毎年9月中旬に開催される「十五夜祭」で奉納されます。


明治26年(1893年)からは、32面の神楽面を使った26座の神楽を奉納。

32面のうち、27面は日本初の人体解剖模型を制作した北川岸次が手がけたものです。



南魚沼の工匠「北川岸次」とは?




北川岸次は船ヶ沢(当時)出身の工匠で、浦佐の毘沙門堂裏手に銅像が建っているので、ご存知の方も多いことでしょう。

北川岸次銅像(浦佐毘沙門堂)

台座脇には以下のような説明が記されています。

北川岸次は天保七年(1836年)船ケ沢の小杉に生れ、安政元年(1854年)浦佐北川家に養子に入る。
幼少より手先器用にして工匠となり、毘沙門堂等に数々の偉作を残す。
明治五年(1872年)八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す。
その模型を携え特許出願のため上京した折政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる。
また、我が国初の人体解剖模型を完成。
さらに石膏蝋細工等の技術により医学研究分野に貢献す。
明治十五年(1882年)八月三日病死す。
享年四十七才。
昭和三年十一月十日(1928年)生前の功により贈従五位を受く。


北川岸次銅像説明文

ザックリすぎて「ふ~ん」という感じで流し読みしてしまうのですが、探っていくと北川岸次が素晴らしい工匠であったことがわかりました。

例によって、まだ調べ途中ですが……。

銅像に記されている説明文に沿って、北川岸次の功績を詳しく説明していきますね。



手先器用にして工匠となり偉作を残す




船ヶ沢新田に生れた北川岸次は幼名「小萬治」のちに「清賢」と名前をあらためています。

子どもの頃から手先が器用で、安政元年(1854年)19才のときに北川家の養子となり、近考斉岸次と名乗るようになりました。

岸次が器用であったことを物語るのが、「清賢」を名乗っていたころに制作した、神社の向拝や欄間、仏壇などの作品。

荒山十二神社の向拝裏に、清賢の署名があるそうです。

その他、穴地十二社の拝殿の大戸(上には石川雲蝶の彫刻あり)も岸次の作品です。

そして、北川家に養子に入った後の明治元年(1868年)、一村尾の若宮八幡宮の神楽面27面を作成しました。



八色ヶ原開発を志し動力水車を考案す




一村尾の神楽面を作成したのと同じ頃、北川岸次は浦佐の天文数学者・柳與三次に学びながら、渾天儀(こんてんぎ)を作成します。

渾天儀(こんてんぎ)というのは、天球をかたどった模型で、古く中国で天体の位置測定に用いられた器械です。

渾天儀(国立科学館所蔵)

また、この頃、岸次は八色原の開墾に目を向けます。

八色原は以前から開田が試みられていた地域でしたが、水無川の氾濫で幾度となく土砂が流失し起伏が多いため開墾できずにいました。


明治5年7月のこと。

岸次は八色原を開墾んするために、渾天儀をもとに動力水車の開発に取り組みます。

そして、政府に補助金の申請を行うため、開墾計画の企画書と動力水車の模型を携え上京。

このとき、岸次の技能に注目した政府は、岸次に活動の場を東京に移すように勧めます。岸次は拠点を東京に移し、宮内省や工部省などで西洋建築や家具の製作を行うようになります。

岸次が申請した八色原の開墾のための動力水車はどうなったのでしょう?

八色原の開拓については、次のような記述があります。

八色原の開拓は戦前から何度も取り組まれたけれど成功することはなく、昭和53年にパイプ灌漑が完成。その後、用水路や耕作道などが整備された。

昭和という年号からもわかるように、岸次の動力水車は実現することはなかったようです。

岸次の才能を買い、政府が岸次を東京に留めたのか。
開発のための助成金を支払うことを躊躇し岸次を東京に留めたのか。

前原一誠の信濃川分水計画が明治政府に受け入れられなかったことが頭をよぎります。

平成の八色原



政府に懇望され、洋式建築、洋風家具の製作に携わる




動力水車の模型を持って東京に出向いた岸次は、その才能を認められ、西洋建築や家具の製作を行うようになります。

実際、北川岸次が東京でどのような物を製作していたのか? これについては、岸次の息子である「北川千次」が執筆した文章に次のような記述があります。

陸軍士官学校は「エラカ」の彫刻を都下の彫刻者に募るも、未だあらざれば能く刀を下す能はざるを以てなりと、君(岸次)之れに鷹じて曰く、我が技、稚拙なると雖(いえど)も、聊(いささ)か期する所あり、試みに之に當(あた)らんかと、細念深考遂に之を制作し、士官学校の用ゆる所となれり。

参考:「東京模範商工品録」明治40年6月出版 東京の工業製品カタログ

東京模範商工品録表紙

岸次は陸軍士官学校で「エラカ」の彫刻を手がけ、同校のイスやテーブルなども制作したと千次は書いています。

ちなみに、この「エラカ」を調べてみたのですが、なんのことかわかりませんでした。人の名前なのか、技工なのか、場所なのか物なのか……。



我が国初の人体解剖模型を完成




岸次が陸軍士官学校での仕事に励んでいた頃、開成学校が理化学に関する模型の制作を懸賞をかけて募ったと千次は同文章に書いています。

千次は岸次が「洋式彫刻を士官学校の「エラカ」に倣ふて能く模擬し得たり」「模擬難模型難を叫ぶは、自ら侮るものにして面して外人に對(たい)し我が工藝界の無能を告白するもの」と一念発起して、人体模型の作製を引き受けたと説明しています。

人体模型制作で岸次は苦労を重ねたようで「苦心惨憺、遂に木彫の型を作り、之に漆型を施して以て模造するの制作法を案出せり」と制作の模様を千次は綴ります。

そして、ついに人体模型が完成。

「其の創意の結果は好績にして、彼の輸入品と相對する」

「其の功績や甚だ大、我が学術界、工藝界の歴史上に於て特筆大書に値ひす」

千次は父・北川岸次の功績を絶賛。

実際、岸次の人体解剖模型は、内蔵や血管、骨格などが精巧に再現されており、それぞれが取り外しができ、身体の仕組みを知るのに適した模型でした。

人体解剖模型は、千次の会社で制作され、医学の発展に大きく貢献したと言います。



北川岸次が手がけた太々神楽面




岸次が作成した人体模型は大正12年(1923年)に浦佐尋常小学校に寄付
され、現在は八色の森公園内の「むかしや」に展示されています。



「むかしや」さんに行くと、奥の方にリアルな人体模型が置かれていて、小学校の理科室で人体模型を初めて見てびびったことを思い出すのは、私だけではないはず……きっと。



先にご紹介したように工匠・北川岸次が手がけた作品は、南魚沼市の各地に点在しておりますので、岸次巡りができますね。

浦佐の毘沙門堂で岸次の銅像を見て、八色の森公園の「むかしや」さんで人体模型を見てびっくり!







2018年3月2日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 大ローソク【スケッチ】

いよいよ、今晩、前夜祭ですね。
浦佐毘沙門堂、裸押合い祭りで使用される大ローソクのラフ画です。

毘沙門堂の四隅に飾られます。

2017年3月3日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 ささら擦りについて



こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のワンシーンです。

●浦佐毘沙門堂の写真については
浦佐毘沙門堂の境内【写真あり】をご参照くださいね。

さて先日、ササラ擦りのイラストをアップしました。
裸押合い祭のイラスト 浦佐毘沙門堂裸押合い祭「年男」と毘沙門天像の関係


ササラすりというのは、祭りのクライマックスに行われる行事です。

押合いと奉納品の参献と撒与品が繰り返し行われた後、夜11時頃にササラすりが始まります。
「サンヨウ、サンヨウ」の文句に合わせ、年男がササラをすり上げます。

簓(ササラ)とは、民族芸能や祭りなどで使われる楽器のようなものをさします。
様々な形がありますが、竹の先を細かく割って茶筅のようにしたササラや玉すだれのような形をしたものがあります。

浦佐毘沙門天堂の裸押合い祭のササラは(上記イラストのものと形状が異なりますが)竹でできていて「擦りササラ」と「受けササラ」があり、切り込みの形状が擦りと受けで異なっています。

擦りササラは縦に13本の切れ込みがあります。

13という数字は、毘沙門天の眷属である、五大鬼神の「五」と夜叉八大将の「八」を合わせた数字です。

五大明王
・不動明王
・降三世明王
・軍茶利明王
・大威徳明王
・金剛夜叉明王


夜叉八大将(八大夜叉大将)
・宝賢夜叉
・満顕夜叉
・散支夜叉
・衆徳夜叉
・應念夜叉
・大満夜叉
・無比力夜叉
・密厳夜叉

そして、受けササラには、横に30本の刻みがされています。

天地に刻みを入れ、その中に28本の刻みをいれるということです。

毘沙門堂の山門の二階には、毘沙門天の眷属である二十八使者の像が安置されています。

この擦りササラと受けササラを十字にクロスさせ年男は真言密教を唱えながら、一年の豊作を祈願します。

ササラは内側に擦ると凶作に、外に擦ると豊作になることから、外へ外へと擦ります。


唱える呪文は他人に聞こえてはいけないので、年男は声に出して唱えません。
また、声が漏れないように、音頭取りの人たちが、音頭歌を歌っているともいわれています。

このササラは、坂西家の当主が代々、奉納する習わしとなっています。

坂西家は江戸時代に大割元役を務め、裸押合い祭では村の「重立の旦那」として尊敬された特別な家。


そして、坂西家の当主の代がかわるごとに新しいササラを作りますが、ササラをつくる竹は京都石清水八幡宮の竹を使用し、制作は普光寺の大工棟梁が行います。

できあがったササラを、坂西家の御当主が毘沙門天に奉納するわけです。


音頭取りの家も決まっていて、鈴木家が代々世襲しており、脇音頭をとるのは、分家や鈴木家に縁のある人に依頼するそうです。

鈴木家は江戸時代、大割元・坂西家の祐筆であったという伝承が残っています。

余談ですが、3月3日当日は、坂西家の御当主は「藤原の姓を名乗り」裃(かみしも)を来て、大祭に参加するとのこと。

さあ、そして。

ササラ擦りが始まると、押合いをしていた人々が、年男の周りを輪になってとりかこみます。
輪は三重四重となり、ぐるぐると年男の周りを回り、音頭取りの人々が、音頭歌を歌います。

以前は、音頭取りの人々ではなく、年男がササラを擦りながら音頭をとったと、鈴木牧之の「北越雪譜」に描かれています。


当月三日に年男参ったりな。
立ったこそ道理や門の松がまっさるわ。
まんがわらに手かけて春が来たとうのばら。
わいらに着しようとて白い管の笠。
黄金の花が咲く四つ隅のように。
たーむこそ道理や実が入るとうて。
立ったこそ道理や米が降るとうて。


この七つの文句を七回ずつ繰り返し、四十九回歌います。
一句一句の間に、年男の周りを回る人々が「サンヨウ、サンヨウ」と合いの手を入れます。

四十九回の歌が終わると「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」と唱えられ、輪を描いていた群衆が二つに割れ、年男が人々の「来い来い来いよ」の声に導かれて、内陣に入りササラを本尊の厨子に納めます。

その後、御灰像十二体を撒与して祭りは終わります。

祭り全体が一つのストーリーになっているような感じですね。

ラストの「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」がですね……。
なぜ、浦佐は山が多いところなのに、海を描写するような文句なのかというのが謎です。

また、人波が2つに別れるというのと、ささらを厨子に納めるという行事が……。
モーセの出エジプト記と契約の箱みたい──と思いました。

そして、黄金の花が咲くというのがですね――。

年男、井口家のご先祖が「毘沙門天像を運んで浦佐にやってきた」という言い伝えもありますしね。

浪漫があるお祭りですよね。

【2019年3月追】
浦佐の裸押合い祭り、毘沙門堂が製鉄に関係があるのではないか、という民俗学の本を読みました。現在、調査中♪ネコしきが製鉄に関係ありそう。
毘沙門天は製鉄に関係しますもんね。



2017年3月1日水曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 多聞天額毫を得た人物「弘賢」の行跡


こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天裸押合い祭り際に設置される大蝋燭です。
毘沙門堂内の四本の大きな柱の上に、蝋燭を設置します。

四本柱の蝋燭は、浦佐・長岡・小千谷・見附から奉納されるそうです。


さて、先回は毘沙門市の縮売買の件を書きました。
今日はその続きを書かせていただきます。


嘉永元年(1848年)頃、毘沙門市で縮の買取を行ったことから、堀之内との間でトラブルが起きました。

浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張り、その中で近隣から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】

菊紋入りの幕が張られていたら、うかつにその中には入れないでしょう。
時代劇の水戸黄門が持っている印籠みたいな感じかな?

なぜ普光寺に菊紋入りの幕があったのか? ということですが。
それには、文化十二年(1815年)に普光寺の住職についた弘賢が関係しています。

弘賢は毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀した人物で、
三十三番観音だけではなく、数々の行跡を残しています。

調べたところ、多聞天額毫(がくごう)も弘賢が得ています。
この方は、毘沙門天信仰に力を入れたようですね。

山門を建立する際、住職は後任の賢空に変わっていましたが、弘賢の力が影響を及ぼしていたようです。

話しを、菊紋入りの幕に戻します。

弘賢は文政三年(1820年)から文政八年(1825年)にかけて、京都嵯峨院から、菊のご紋使用許可、菊紋の幕、多聞天額毫などを得ています。

弘賢は普光寺の住職についた二年後に、新義真言宗(真言宗の宗派のひとつ)を統括する「江戸四箇寺」のひとつ「真福寺」に移り住職となります。

その後、普光寺の塔頭寺院のひとつ文殊院の住職代行につきます。

塔頭(たっちゅう)というのは、高僧の墓という意味です。
えらいお坊さんのお墓の近くに、弟子たちが小庵をたてて墓守をしていたのですが、小庵が寺として独立したものが塔頭寺院となりますが、寺院の敷地内にある別の坊をさすこともあります。

普光寺には、文殊院をはじめ千手院、花蔵院、宝授寺、地蔵院、西泉院という六箇所の寺院が存在していましたが、江戸から明治期にかけて廃絶し、現在残っているのは千手院のみとなってしまいました。

参考までに六寺院の本尊は──。

千手院⇒千手観音菩薩
文殊院⇒阿弥陀如来
法授寺⇒薬師
花蔵院⇒正観音
西泉坊⇒弥陀
地蔵院⇒地蔵

この六箇所以外にも、昔はもっと塔頭寺院が塔頭があったようです。

弘賢は普光寺の寺宝となる仏舎利、弘法大師の真蹟(しんせき:実際に書いたとされる)大般若経、足利尊氏・同義満書状などを収集し、寺に納めました。

これは、弘賢が真福寺に関係していたから行えたことだと言われています。

また、裸押合い祭で井口家が行場に掲げる毘沙門曼荼羅も、攝州本山寺の毘沙門曼荼羅を写し取り、弘賢が寺に納めたそうです。

毘沙門曼荼羅というのは、毘沙門天と毘沙門天に使える28の夜叉を描いた曼荼羅。
浦佐毘沙門堂では、山門の楼上に毘沙門天二十八使者の彫像が安置されています。

弘賢がどんなビジョンを持って、毘沙門堂や普寺光を形作ろうとしていたが気になります。

曼荼羅の絵を見ていてフト
押合い祭も人々が輪を描くわけだから、体曼荼羅とも言えるかも……と思いました。

話があちこち散乱してしまいましたね。すみません。
毎度のことか(^^;)

それはそうと

調べれば調べるほど、浦佐の毘沙門堂は興味深いと感じました。
今後も追跡調査していきたいと思います。

2017年2月24日金曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 毘沙門市でトラブル発生!【江戸時代】



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門堂の山門です。

浦佐毘沙門堂の山門は天保2年(1831年)に、若松屋市四郎(関市四郎)の寄進で建てられました。
若松屋は酒造業や物流も行っており、大きな富を築いたと言われています。

今回は、この若松屋市四郎の息子さんと、毘沙門市のお話をさせていただきます。

話しは山門から、毘沙門堂へと飛びます──。


毘沙門堂市と多聞天祭礼市


大同2年(807年)に、坂上田村麻呂が建立されたと言われている毘沙門堂がある南魚沼市浦佐は、信濃川に通じる魚野川の両岸に位置する町です。

現在は上越新幹線の停車駅がありますが、江戸時代は三国街道の宿場町の一つとして賑わっていました。

浦佐毘沙門堂では毎月3のつく日に護摩をたいたことから、3のつく日には多くの人が参詣に訪れ、その人たちを目当てにした市が立つようになりました。

裸押合い祭も、3のつく日に開催されますが、この日は「サンゲツミッカノゴメイニチ」として、いつにも増して毘沙門堂前は賑わいます。

また、旧暦8月から9月までは、毘沙門天の御護摩が行われ、五穀・養蚕の豊穣を祈願する参詣客が各地から訪れ、その参詣客を相手に多聞天祭礼市が開催されました。


毘沙門天と多聞天について【余談】


浦佐毘沙門堂の入り口の扁額にも「多聞天王」と書かれていますが、多聞天というのは、毘沙門天のもう一つの名前です。
仏教では毘沙門天は、持国天、増長天、広目天と共に、須弥山に住む帝釈天につかえる四天王とされています。

余談ですが、東寺の講堂にいらっしゃる帝釈天さんはイケメンですよねぇ♪
東寺の講堂の立体曼荼羅の配置図を見ていただけるとわかりますが、四天王が四方を固めています。

話しを、毘沙門天に戻します。
四天王の一尊として安置する場合は「多聞天」、単独で安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれています。
四天王としてユニットを組んでいるときは多聞天で、ソロ活動するときは毘沙門天ということですね。

毘沙門堂の扁額がなぜ「多聞天王」と書かれているのか? についても、知りたいですねぇ。要調査です。

ただ……先ほど東寺講堂の話を書きましたが、東寺講堂の立体曼荼羅の中央には大日如来が安置されています。
毘沙門堂の別当寺として建てられた、普光寺の本尊も大日如来です。

普光寺の住職であった弘賢が、毘沙門堂裏山に三十三番観音を奉紀していますが、普光寺の大日如来を中心において、曼荼羅を敷こうとしていたのかもしれませんね。

毘沙門堂の毘沙門市


さて、毘沙門堂付近で開催されていた市ですが、毘沙門堂の市に足を運べば、なんでもそろうと評判だったようです。

ちなみに、江戸時代に売られていた品物は、食料品、日用品、衣類、鉄器、陶器など様々。

市には長岡や柏崎、三条の商人なども出店し、店の数が多く、村はずれにも出張小屋が設けられました。
各地から人が大勢集まり、市で買い物をしたことが、古い書籍からうかがえます。

徳川幕府や公卿から注文を受け、越後縮(御用縮)を納めていた十日町の縮問屋「加賀谷」も、この毘沙門天の市に出店し、縮の買い集めと反物の販売を行っていたと言います。

縮の販売で堀之内とトラブル!?


この毘沙門堂の市とは別に、現在の魚沼市堀之内では4月に「縮市」が開催されていました。

堀之内も三国街道の宿場として栄えた町です。

江戸から三国峠を越えて長岡に向かう途中にある宿場は、
湯沢・関・塩沢・六日町・五日町・浦佐・堀之内……。
浦佐の次の宿場が堀之内です。

堀之内は京都・大阪からの文化の影響を受けた町のひとつです。
9月に開催される「堀之内十五夜まつり」の神輿や屋台の華やかな色使いに上方文化の
片鱗が見えます。

十日町、小千谷、塩沢と同じように縮の産地だった堀之内では、毎年4月に冬の間に織った反物を販売する「越後縮市」が開催されていました。

ところが、毘沙門堂の市のほうが人手が多く賑わうことから、堀之内の農民たちは縮を浦佐で売ろうとしました。
これが原因となり、嘉永元年(1848年)に堀之内と浦佐の市関係者が対立します。

ちなみに、嘉永元年の江戸幕府征夷代将軍は第12代・徳川家慶。孝明天皇の時代。
嘉永6年(1853年)にペリー提督の黒船が浦賀沖にやって来た、時代の変わり目の時です。


ここで登場!若松屋市四郎の息子・起兵衛さん!


浦佐毘沙門堂の山門を寄進した若松屋市四郎の息子・起兵衛は、坂西家の二間を借り、普光寺から持ってきた菊紋入りの幕を張って、その中で近隣(堀之内の人とかでしょうね)から来た人から縮を買い込んだ。

【参照:新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗「第一章 浦佐の外観」より】


ちなみに坂西家は、裸押合い祭で年男が使う、ササラを奉納する江戸時代の大割元です。

起兵衛は買い集めた縮を、江戸に商売に行く、柏崎や松之山の仲買人に斡旋していました。

菊紋入りの幕が張られていれば、中に入るのは難しいでしょうね。

菊紋入りの幕は、普光寺から持ってきたといいますから、坂西家で行われた縮の買い取りは普光寺公認だったのかもしれません。
山門を寄進した人の息子から頼まれたら、断ることはできないでしょうね。

なぜ、普光寺に菊入の幕があったのか……についてはくなったので、後日書きますね。

2017年2月21日火曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 「年男」と毘沙門天像の関係



こんにちは、魚沼工房のさとうです。

今日のイラストは、浦佐毘沙門天堂の裸押合祭りの中でも重要とされている「ササラ擦り」のシーンです。

ササラ擦りとは、毘沙門天に豊作を祈願して奉納する儀式。

人馬に担がれている年男が行います。

年男は祭りを主宰し、ササラ擦りなど重要な役目を担うキーマンです。

その年の十二支と同じ年に生まれた人をさして「年男」「年女」と言いますが、
浦佐毘沙門堂の裸押合い祭でササラ擦りを行う「年男」は、十二支の「年男」という意味ではありません。

家々で正月行事を司る家長としての「年男」の意味に近いと言えます。


浦佐毘沙門堂の堂守「井口家」


浦佐裸押合い祭の「年男」は代々「井口家」当主が務めると決まっています。


井口家は代々毘沙門堂の堂守を務める家で、裸押合い祭りをはじめ、毘沙門天や毘沙門堂にかかわる一切のことを管轄しているそうです。

これは、井口家のご先祖が毘沙門天像と深い繋がりがあるからなのです。



井口家のご先祖が沼に釣りに行った際、沼から毘沙門天の木像を引き上げたと言います。
※木像で丈は7寸か8寸(25cm弱)。



井口家ご先祖は毘沙門天像を家に持ち帰り、石の祠を建てて内鎮守として祀り、のちにその毘沙門天像を普光寺境内に安置したのです。



これとは別に、井口家のご先祖が毘沙門天堂を背負って浦佐にやってきたという伝承も残されています。


2017/03/03追記
井口家のご先祖は、丹波国(京都府)の吉祥院と称する当山派の山伏だったとのこと。



浦佐の毘沙門堂裸押合い祭における「年男」の役割は「神主」に似ているようでもありますが、祭り前の厳しい「行」を考えると、行者に近いと感じます。

年男は裸押合い祭で福物を人々に撒与ますが、毘沙門天の代理として行うため、祭り前には二週間の仮行と一週間の本行を行い心身を清めます。

裸押合い祭当日も、ササラ擦りが行われる時間まで、年男は本堂の一室に設けられる「行場」に籠ります。

裸押合い祭がおこなわれている毘沙門天堂から行場は離れていて、
行場から毘沙門堂へ移るとき、年男たちは不浄なものに接しないように、人馬に担がれて移動するのです。

「祭り」というとイベント的なイメージが浮かびますけれど、
浦佐の裸押合い祭の流れを知ると「本来は神聖な儀式だった」と身が引き締まる思いがしました。


ご本尊「毘沙門天像」について


裸押合祭の際、参拝の対象になる毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏で、木製(ツバキ)で作られていると言われています。

「北越雪譜」天保8年(1837年)にもツバキという記述がありますし、
「浦佐年中行事」宝暦4年(1754年)には
『毘沙門は立像二尺六七寸の椿の白木作 依之一村椿を大切にいたし』との記載があります。

本尊の毘沙門天像は金銅製で、普光寺の別行殿に安置されています。

前立仏の毘沙門天像、金銅製の毘沙門天像ともに、いつ作られたのかわかっていませんが、金銅製の毘沙門天像はインドの仏師・毘首羯磨(びしゅだるま)の作と言われています。

「南魚沼郡志」に『本尊毘沙門天は印度の毘首羯磨の彫刻に係ると言う 長さ二尺三寸 厨子に天正二十(1592)年云々と彫刻あり』という記述があります。

ちなみに、南魚沼市「龍沢寺」にも毘首羯磨が制作した文殊菩薩が安置されています。
龍沢寺に文殊菩薩を奉安したのは、上杉景勝の母・仙桃院(上杉謙信の姉)です。


話しを浦佐の毘沙門堂に戻します。


昭和23年(1948年)2月29日の魚沼新報に梶山賢朗住職(当時の普光寺住職)が書いた「本尊毘沙門天王について」という記事が掲載されました。

その中で本尊毘沙門天像は「金の甲を被り左の手に宝塔をささげ、右の手に如意宝珠をのせ、足下には藍婆、毘藍婆の二鬼を踏んづけている」と描写されています。

平成10年(1998年)に発行された「図説 十日町・小千谷・魚沼の歴史」に、旧浦佐毘沙門天像の本尊と伝えられている毘沙門天像の写真が掲載されていますが、足下に二鬼は踏んづけていません。

こちらの書籍に載っている毘沙門天像は、井口家の内鎮守に祀られていた毘沙門天像なのでしょうか。

坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう前、井口家が祀っている毘沙門天像に戦勝祈願をし、蝦夷平定後に再び訪れ住民の歓迎を受けたとのこと。

それ以後、毎年毘沙門堂を訪れてお祝いをしたのが、裸押合い祭の起源という言い伝えもあります。

大同2年(807年)に坂上田村麻呂が毘沙門天堂を建立して、金銅製の毘沙門天像を安置したという伝承も残っています。

蝦夷平定後、毘沙門堂を建てて、毘首羯磨作の毘沙門天像を本尊として安置した──という流れでしょうか?

「普光寺の明細書」慶応4年(1868年)に『本尊 多聞天 一体 木像 丈二尺三寸一分』と書かれています。
ここに「本尊」「木像」とあるのが気になりますが……。


坂上田村麻呂おお忙しの「大同2年」


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像が複数存在している話を書きましたが、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が建てたとされている寺社が各地に存在しています。


「大同」は806年から810年までの4年間の年号。
平城天皇が即位しましたが、大同4年(809年)に病気のため弟の嵯峨天皇に譲位します。

坂上田村麻呂建立ではないけれど、大同2年に建立されたという謂れがある建物が全国各地に存在しています。著名なところだと清水寺や長谷寺。

その他、山の開山や鉱山の開坑も、大同2年という記述が複数見られます。

東北方面は坂上田村麻呂に関連した伝承、南は空海に関する伝承の大同2年建立という建物がたくさん!

この二人が全国各地を練り歩き寺社や神社をどんどん建てた……とは考えられないので、二人に縁のある人たちが関与したのかもしれません(笑)。

もしくは、大同2年よりのちの世。何らかの意図で、神社仏閣の建立年を大同2年に変更したのかも。


由縁があると「大切にしよう」という思いが強くなります。

土地や建物を後世まで残すために、様々な人物の名前を借りて、誰かが何かを守ろうと考えたのかもしれませんね。

古人が守り続けてくれたからこそ、昔の歴史を調べてワクワクすることができるのですから。

2017年2月18日土曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭 1本の椿から作られた複数の毘沙門天像





こんにちは、魚沼工房のさとうです。
今日のイラストは、裸押合い祭りが開催される、普光寺境内の毘沙門堂です。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で

栃尾市の「巣守神社」のご神体「毘沙門天」と、浦佐の毘沙門天が同じツバキの木で作られているという伝承を紹介しました。

続けて調べたところ、巣守神社と同様に「浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた」という伝承が残っている毘沙門天像が新潟県内中越地方を中心に点在していることがわかりました。

毘沙門天像の大きさについて


浦佐の毘沙門天像は、木像のものと、金銅製のものがあることをご存知でしょうか?

押合祭のとき、参拝の対象になるのは、木製(ツバキ)の毘沙門天像で、毘沙門天堂内に安置されています。

ツバキでできている毘沙門天像は、通常公開されない仏像(本尊)の身代わりとして安置されている前立仏です。

金銅製の毘沙門天像が本尊であり、坂上田村麻呂が泰安したといわれています。
本尊は普光寺の別行殿に安置されています。

巣守神社をはじめとした、中越地方の寺社に安置されている同じ木で作られていると言われているのは、浦佐毘沙門天堂内に安置されている、前立仏の毘沙門天像です。

この毘沙門天像の大きさに関する記述が複数の書籍に見られますが、それぞれ大きさの記述が異なります。

・江戸幕府の検地役人・土山藤右衛門が勘定奉行に提出した復命書(出張報告書のようなもの)「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)には、二尺六~七寸(80cm程)。

・会津藩の地誌「新編会津風土記」文化6年(1809年)には、二尺三寸余(70cm程)。

・江戸時代に越後魚沼の雪国の生活を描いた「北越雪譜」天保8年(1837年)では三尺五~六寸(1m10cm弱)。

・大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)と記されています。

しっかり採寸したのか目視によるものか。

それにより、大きさの記述に違いがでると思います。

もしかすると、それぞれの書籍が書かれた時代の毘沙門天が違っていた──
という可能性も否めません。


浦佐毘沙門天像が彫られたツバキの木はどこから来たのか?


鈴木牧之の「北越雪譜」に、浦佐の毘沙門天像は「椿沢という村にあったツバキの大樹を切って造った尊像と言われている」という記述があるように、毘沙門天堂内に安置されている前立仏の毘沙門天像は、椿沢の山にあったツバキの大樹を伐り、それを彫って造ったと伝えられています。

ツバキの大樹があったという椿沢は、現在の見附市椿沢町です。

浦佐には、見附市椿沢の毘沙門天と浦佐の毘沙門天は1本のツバキから彫られたという伝承が残っていますが、見附市椿沢の「椿沢寺」には、毘沙門天像が浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られたという伝承はありません。

ただし、椿沢寺には毘沙門天像のほかに、千手観音像が安置されていて、こちらはツバキの古木で作られていると伝わっています。

椿沢寺の千寿観音像は、和銅二年(709年)に行基が椿の木の霊示を受けて椿の古木で千手観音を彫刻したという伝承と、椿沢を通りかかった旅の僧が、倒れた椿の大木で三体の観音像を刻んだうちの一体である、という二つの伝承があります。

過去記事「2017年カレンダー 6月 守門岳のイラスト」で、

栃堀の巣守神社にある毘沙門天像は、浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られているという伝承が残っていると書きましたが巣守神社にも、見附市椿沢から採取したツバキの木から二体の毘沙門天像を作り、一体を巣守神社もう一体を浦佐のご神体としたという伝承が伝わっています。

また、巣守神社の毘沙門天像を作ったツバキは、守門岳からとってきたという言い伝えもあります。

浦佐は見附椿沢の毘沙門天像と同じツバキで作られていると言い、
栃堀は浦佐と同じツバキで作られていると言う。

「どっちが本当なの!?」と思いますよね。
けれど「同じツバキで作られている」と伝承しているのは、見附と栃堀だけではないのです。


浦佐の毘沙門天像と同じツバキで作られた毘沙門天像は何体あるの!?


柏崎・常福寺では昭和30年代の終わり頃まで、浦佐毘沙門堂と同じように3月3日に裸押合い祭りが開催されていました。

常福寺にも毘沙門天像があり、常福寺を建立した伝教大師が椿の古木で毘沙門天を三体作り、
上を高原田、下を浦佐、中を常福寺に安置したと言われています。

これ以外にも、浦佐の毘沙門天と同じツバキの木で作られているとされる伝承が残されている毘沙門天像が

・柏崎の常福寺、普広寺
・小千谷の多聞神社
・魚沼の守門村にある内鎮守、宝泉寺
・南魚沼の七尊観音堂

など、複数の神社仏閣に安置されています。


1本のツバキで何体もの毘沙門天像が作られたのか?


浦佐毘沙門堂内に安置されている前立仏の大きさは、著書により大きさがさまざまであるとお伝えしましたが、一番近世の大正9年(1920年)に編纂された「南魚沼郡誌」の二尺三寸(70cm程)で考えてみも、1本のツバキから1m弱の毘沙門天像が何体も制作できたとは考えられません。

椿は通常5~6mほどの高さになる常緑性の高木です。

では、大樹と言われている椿はどのくらいの大きさなのでしょう?

参考として、日本にある椿の大樹の大きさを記述させていただきます。

・京都府与謝野町「滝のツバキ」樹齢1200年を越える。樹高は9.7m、幹周約3.3m。

・千葉県成田市「伊能のツバキ」樹高6m、幹周3.5m。

・東京都大島町「小清水の大木」樹齢300年。樹高10m、幹周1.6m。

大樹、古木となりますと、樹勢が衰えて幹の空洞化が進んでいる場合もあります。
どんなに大きなツバキの木だとしても、枝分かれ部分もありますから、何体もの毘沙門天像を彫り出すのは難しいと思います。

各地の毘沙門天像は浦佐の毘沙門天像である可能性(推測)


もし、浦佐の毘沙門のツバキの毘沙門天像が複数存在していた、としたらどうでしょう。

そのように考える理由が、昭和6年に起った毘沙門堂の火災についての記事にあります。

浦佐の毘沙門堂は、坂上田村麻呂が大同2年(807年)に建立したと言われています。

どのような建物であったのかわかっていませんが、鎌倉時代には今の毘沙門堂と普光寺、大伽藍の輪郭が形成されていたようです。

「浦佐村年中行事」宝暦4年(1754年)にも、江戸時代中頃には毘沙門堂は7間4面の荘重な御堂であったと記されています。

しかし、この御堂は、残念ながら昭和6年(1931年)の火災で焼失してしまいました。

今の毘沙門堂は、伊藤忠太(東京帝都大学名誉教授)設計により、昭和12年(1937年)に完成したものです。

昭和6年の火災で毘沙門堂は焼失。その時の記録として――。

・木像毘沙門天一躯
・吉祥天・善膩師童子の両脇侍
・八大夜叉八躯
・鬼子母神、賓頭盧尊各一躯

その他、仏具類を焼亡したとあります【新潟県浦佐毘沙門堂裸押合の習俗より】

秘仏である本尊は火災を逃れましたが、木像の毘沙門天「一躯」が焼亡しています。

火災の後、木像の毘沙門天像が作られたという記述が見受けられないので、現在毘沙門堂に安置されている前立仏の毘沙門天像は、昭和6年の火災を逃れた毘沙門天像ということになると思うのですが……。

昭和6年の火災で木像毘沙門天一躯が消失したということは、現存している前立仏の毘沙門天像と消失した木像毘沙門天像、少なくとも毘沙門天像は2躯あったということですよね。

先に紹介した過去の書籍は、それぞれ毘沙門天像の大きさが異なります。

・「浦佐村年中行事」二尺六~七寸(80cm程)。
・「新編会津風土記」二尺三寸余(70cm程)。
・「北越雪譜」三尺五~六寸(1m10cm弱)。
・「南魚沼郡誌」にも二尺三寸(70cm程)。

それぞれの書籍の著者が見た毘沙門天像が全て異なっていたという可能性もありますよね?

出雲崎町「多聞寺」の本堂に2体の毘沙門天像が安置されていますが、そのうちの1体が、浦佐から招来された毘沙門天像として伝わっています。

多聞寺参道前にある石碑には、多聞寺が浦佐毘沙門天の御分体を安置し、出張所を作って活動していたという刻字がされています。

残念ながら、多聞寺の毘沙門天像は秘仏とされていて普段は見ることができませんので、
どのような立像なのかわかりませんが、複数の毘沙門天像が作られ、出雲崎の多聞寺と同じような形で、浦佐から各地に毘沙門天像が送られていたとしたらどうでしょう?


ツバキと上杉謙信と毘沙門天でブランディング


ツバキは古来より「神が宿る木」として、現在でも「霊木」とされています。

浦佐では毘沙門天像がツバキから作られているというので、ツバキを薪にすると祟りがあると言われ、ツバキの木を植える人がいないと「北越雪譜」に書かれています。

そして、浦佐の毘沙門天像をつくったツバキと同一のツバキからつくられている毘沙門天像があると言われている見附の椿沢寺は、上杉謙信の祈願所として庇護を受けていました。

謙信は、行基により彫られたという千手観音を信仰し、戦勝祈願に訪れたそうです。

そして結願の礼として、椿沢寺に仏具や枕屏風、茶がめなどを寄進しています。

上杉謙信は「自分は毘沙門天の生まれ変わりである」と信じ、毘沙門天を深く信仰していました。

浦佐の毘沙門堂も上杉謙信との関連があり、天正3年(1575年)に謙信は北条氏政壊滅祈願のため、代理人を浦佐の毘沙門堂に参籠させています。

浦佐の毘沙門天は、古くから越後有数の霊験神として崇められ、武門階級は武の神として、農民は農業の神、商人は養蚕の神として信仰していました。

霊木のツバキ、戦国時代最強の武将と言われた上杉謙信、その謙信が崇拝した毘沙門天。
三拍子揃った浦佐の毘沙門天は神格化されていたはずです。

その毘沙門天と「同じ木」で作られているとなれば、参拝する人も増えることでしょう。
また、格式や権威を得ることができたはずです。

浦佐に置かれていた毘沙門天像が、出雲崎町「多聞寺」のように、出張して設置されることになったのか。

はたまた、同じ椿の木で作られたのか。

同じ木で作られている話になったのか。

真相はわかりませんが、古くから各地で、毘沙門天像のブランディングが行われていたのかもしれませんね。

2017年2月6日月曜日

浦佐毘沙門堂裸押合い祭







こんにちは、魚沼工房のさとうです。
新年を迎えたかなぁと思ったら、あっという間に節分が過ぎてしまいましたね。

月日が過ぎるのが早いです。
前倒しで行動しないと、置いていかれるばかり……。

ということで!
今日のイラストは、3月3日に開催される、浦佐毘沙門堂裸押合い祭!


2017年の開催は金曜日となります。



前夜祭 3月2日(木)
・ご祈祷⇒午後6時~8時
・点火式⇒午後8時~

大祭当日 3月3日(金)
・稚児行列、福餅撒与など⇒午前8時30分~
・押合、弓張撒与、福餅撒与など⇒午後5時~午後10時45分



浦佐の裸押合い祭は、日本三大奇祭のひとつで、国の無形民俗文化財に指定されていて、大きなローソクを使うことから「大ローソク祭り」とも言われています。

ローソクの重さは約30kg~50kg。
その製造工程は秘伝とのこと。


祭りの起源は、坂上田村磨が浦佐に御堂を建て、毘沙門天王を祀り、
将士や村人と共に国家安穏と戦勝を祈願、五穀豊穣・家内安全・身体健康を祈り、
祝宴を開催し、士気を高めたことと言われています。


また、化け猫退治が祭の始まりという説もあります。

毘沙門に住みついた猫が年をとって化け猫になり
毘沙門堂の堂守(どうもり)を次々と食い殺してしまった。

村人たちが化け猫退治を思案しているとき、一人の修行僧が毘沙門堂を訪れ
村人たちとともに化け猫を退治したという。

このとき、 化け猫にむしろをかぶせ「サンヨ、サンヨ」と掛け声をかけて、
化け猫を踏みつけた。

そのため浦佐では、毎年3月3日に御堂にむしろを敷き、
「サンヨ、サンヨ」という掛け声を唱えながら裸押し合い祭りをするようになったといいいますが、押合い祭で、様々な物が撒かれることからサンヨ=撒与の意味であると思います。


かつては、日光東照宮の「眠り猫」を彫った名工・左甚五郎の作とされる原形を元
「魔除けの猫面」が、毘沙門堂門前で売られていたそうです。

昭和初期に作り手がいなくなりましたが、
魚沼出身の画家・早津剛氏が古い猫面を発見し
猫面の復元が行われ、11980年代に「魔除けの猫面」は復活を果たしたのです。


じつは……。
魚沼工房のさとう。


高校のとき、早津先生と一緒に猫面制作していました(笑)


和紙をすいて、その和紙を石膏でつくった猫のお面に重ねて
乾いたら石膏形からはずし、目と口に色をつける。

伝統文化に触れることができました。
和紙作り、猫面作り、楽しかったです。
良い経験をさせていただきました、ありがとうございます、早津先生!